評価する

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

子どもたちに関する出来事は、身近な身の回りにおいても、全国的に見ても、あちらこちらに存在します。すべてが、希望に満ちた嬉しいことであればいいのですが、必ずしもそれだけとはいえません。

先頃話題になった、大阪市の学校法人の問題をいかに評価すればいいのでしょうか。現実的に、問題の主役は子どもたちでしょう。事の成り行きによってその結果を蒙るのは、幼児、生徒たちだからです。

そもそも「評価する」という言葉は、どのような時に使われるのでしょうか。先程の問題について「いかに評価すればいいのでしょうか」と申し上げましたが、わたしの印象としては、どうも善か悪かの識別をするという印象を受けます。

本来はそうではないような気がしてなりません。つまり、物事が「存在する」こと自体は価値があるわけです。それらを利用する時に評価が分かれてくるのではないかと思うのです。そのものの本来の役割にそった利用の仕方をするときに、最高の価値が出てきます。

包丁は料理するためであって、喧嘩をするためではありません。

日常の中で、評価するとは、よいもの同士の中で、さらに良いものを選択することをいうのではないでしょうか。

学校、会社でいう評価はいかがでしょうか。わたしたちの発想の中に、より善いものを発見する心と思いがある限り、マイナス評価は避けたいものです。否、「マイナス」に評価という言葉は使えないのかもしれません。

いずれにせよ、人のいく道に多大な影響を与えるかもしれない、「評価する」ことに、もっと慎重になりたいものです。特に、未来に大きく開かれている子どもたちへの評価は、重要です。みな、等しく神に似せて創られているのですから。

評価する

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

人を評価するとき、自分の見方を変えると、その人の良いところが見えてくることがあります。

たとえば、仕事に時間のかかる人は、他人より「のろま」に見えます。でも、その人は、ひとつひとつ心をこめて「ていねい」にしているのかもしれません。

「失敗ばかり」の人はダメに思われがちです。でも、失敗を恐れずに「たくさんチャレンジをしている」勇敢な人かもしれません。

おしゃべりというより、話題が豊富。消極的というより、冷静沈着。協調性がないというより、自立心が強い。

 

短所も見方によっては、長所になるのです。

私には、ある人の評価で救われた思いになった経験があります。

大学生のとき、教育実習の授業で大失敗しました。45分の内容の授業を、90分かけても終わらせられなかったのです。

その後の授業批評会で、先生方や実習生20人くらいから散々批判されました。「時間を守らないとダメだ」「見通しが甘い」など、すべてその通りなので、私はただ小さく縮こまるしかありませんでした。しかし、その中で一人だけ、別の見方をしてくださった先生がいらしたのです。

「時間がかかったのは、中井君が子どもの発表を最後まで聞いていたからです。教師になっても、子どもの話をよく聞いてあげてください」。この先生は、私の失敗を批判することなく、本人も思っていなかった良い点を見つけて評価してくださったのです。

聖書には、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。(マタイ7・1)

人を裁けば裁かれ、ゆるせばゆるされます。

私も人を評価しなければならないときには、慈しみの心をもってできればと願っています。


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