2017年10月26日の心の糧

評価する

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ 子どもたちに関する出来事は、身近な身の回りにおいても、全国的に見ても、あちらこちらに存在します。すべてが、希望に満ちた嬉しいことであればいいのですが、必ずしもそれだけとはいえません。

先頃話題になった、大阪市の学校法人の問題をいかに評価すればいいのでしょうか。現実的に、問題の主役は子どもたちでしょう。事の成り行きによってその結果を蒙るのは、幼児、生徒たちだからです。

そもそも「評価する」という言葉は、どのような時に使われるのでしょうか。先程の問題について「いかに評価すればいいのでしょうか」と申し上げましたが、わたしの印象としては、どうも善か悪かの識別をするという印象を受けます。

本来はそうではないような気がしてなりません。つまり、物事が「存在する」こと自体は価値があるわけです。それらを利用する時に評価が分かれてくるのではないかと思うのです。そのものの本来の役割にそった利用の仕方をするときに、最高の価値が出てきます。

包丁は料理するためであって、喧嘩をするためではありません。

日常の中で、評価するとは、よいもの同士の中で、さらに良いものを選択することをいうのではないでしょうか。

学校、会社でいう評価はいかがでしょうか。わたしたちの発想の中に、より善いものを発見する心と思いがある限り、マイナス評価は避けたいものです。否、「マイナス」に評価という言葉は使えないのかもしれません。

いずれにせよ、人のいく道に多大な影響を与えるかもしれない、「評価する」ことに、もっと慎重になりたいものです。特に、未来に大きく開かれている子どもたちへの評価は、重要です。みな、等しく神に似せて創られているのですから。

2017年10月25日の心の糧

評価する

橋本 勲 神父

今日の心の糧イメージ 家族のため、会社のため、社会のため、身を粉にして働くこと幾年月、やっと花の定年を迎えてみたら、「粗大ゴミ」とか「濡れ落ち葉」とか、世の旦那様方が酷評された時代がかつてありました。

会社への出勤がなくなり、1日中家に居るようになると、その存在がうっとうしくなり、相応の評価がなされなくなったというわけです。

今はそのようなことはないのでしょうが、人はいつの間にか、何かができなければ、何かを持っていなければ、正当に評価されないという危険にさらされているのかもしれません。

誰もが通ってきた赤ちゃんの頃、何も持たず何も出来ず、ただそこにあるだけで最高に評価されていたあの頃は、単なる夢だったのでしょうか。

そんなはずはない。今でもその実力は失われてはいないはずだ、と思い直してみても「あなたがそこに居てくれるだけでいい」というねぎらいのことばはあまり期待できないようです。

幾年月懸命に働いて得たものはいくらかの退職金だけではなかったはずなのです。その間に積み上げられたその人ならではの存在感であり、その人が居なくなったということは会社にとっても永久喪失感に打ちひしがれても決しておかしくはないはずなのです。

問題は人間の価値がなくなったことにあるのではなく、人間の価値を評価する能力が、次第に失われてきたことにあるのではないでしょうか。

山登りが大好きな人に、危険が伴い、何よりも苦しい思いをせねばならない山登りをなぜするのかと尋ねると、「そこに山があるから」という答えが返ってくるとか。

十字架上で何もできず何も持たず、ただそこにあるだけになった時、「わたしはある」と高らかに宣言したお方もおられます。


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