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森田 直樹 神父

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今から40年以上も前になりますが、私が小学一年生の時、担任の先生は、テストの点数欄に100点しかつけませんでした。

答えがあっているところには、丸印がついていますが、答えが間違っていると、そこにバツ印もつけず、点数欄も空欄のままで返ってきます。そして、間違ったところを正しく直して先生の所に持っていくと、間違ったところに丸印をつけてもらい、100という数字も丸で囲って点数をくれていました。

つまり、いつも100点のテストだったわけです。だから、言うまでもなく、テストはいつも楽しみで、100点の答案用紙が嬉しかったのを覚えています。

聖書によれば、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)と伝えています。言い換えれば、私たち1人1人は100点満点の存在として造られているのです。

ところが、日々の生活の中で、お互いにいがみあったり、相手を見下したり、相手の存在を無視したりすることによって、100点満点であるはずの存在を傷つけ、また同時に、存在が傷つけられてしまいます。

毎日の人間関係で傷つき、傷つけられている私たちに対して、イエスは力強い言葉を私たちに向けています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。(マタイ28・20)

イエスご自身がいつも私たちを励ましてくださいます。1人1人がお互いに大切にしあって、いつも優しい心をもって、100点満点の存在であり続けることができるように、と。

すべてのものと共に人間をお造りになった神様の目には、私たちに対して、100点満点の評価しかありません。イエスの言葉に支えられ、助けられて、お互いにいたわりあい、助け合う生き方へと1人1人は招かれているのです。

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堀 妙子

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ずいぶん昔の話ではあるが、若き日の彫刻家の友人たちの話をしたいと思う。

彫刻家を目指す2人はまだ、彫刻で生活することができなかった。彫刻を続けるために、さまざまなアルバイトをしながら生活をしていた。ある時、黒澤明監督の映画の撮影があるので、小道具・大道具の製作のアルバイトを頼まれた。2人は世界のクロサワの仕事ができると思うと、ワクワクしながら出かけて行った。2人は映画の撮影現場でも教わることは多く、報酬をもらえる上に勉強にもなると喜んだ。

監督は、あるシーンを嵐の中での撮影を望んだが、青空続きで、映画に関わる人たち全員が「雨待ち」となった。戦のシーンを撮るために、たくさんの馬も待機していた。彫刻家の友人のひとりは、子どもの頃から野山を馬で駆け巡っていた。時間があるので、鞍もついていない裸馬に乗り、たて髪を手綱にして、無心に野原を駆け巡った。それを見ていた黒澤監督は「あいつは誰だ? 今回の戦のシーンで使いたい」と言い、助監督が彫刻家の友人に「戦のシーンに出てみないか?」と話を持ちかけた。しかし彼は、「私は彫刻家です」と断ったのだ。

彼はなぜ断ったのだろう......、しばらく答えは出なかった。

ある時、聖書を読んでいて、イエスに向かって「十字架を降りるがいい」と祭司長たちが叫ぶところがある。イエスは十字架を降りなかった。若い彫刻家にとって彫刻が、自分の使命だったなら、大道具・小道具の仕事以外は誘惑だったと思う。黒澤監督にとっても映画が使命だったように、若い彫刻家にとっても彫刻は、使命だった。「評価する」ときに「十字架」を基準にすると、ブレないで天職を歩いていけるのだ。


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