ところで、私達が聖書を開いてみると、その度に胸を貫かれるような思いをする事と思います。そこで試みに、私は聖書を開いてみました。今、私の目の前にあるページにはこう記されています。(参:ルカ6・20~38)
「貧しい人々は幸いである」。これだけで極楽気分は吹っ飛んでしまいます。また読み進んでいくと「あなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか」などを読むと、私は何だかシュンとしてしまって思わず「主よ、お言葉ですが、私はやっぱり、私を愛してくれる人はすごく好きなのですが・・」と訴えました。
すると主は、それは「当然、それでいいのだよ、それも神の恵みなのだから。しかし先も読んでごらん」とおっしゃるので、ページをめくってみました。
人を裁くな、赦しなさい、そして「与えなさい」のところがダイナミックですねー。
与えれば「あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りをよくして懐に入れてもらえる」。押し入れ、揺すり入れって、なるほど、これが神の量りか。
完全な形での評価は、ただ神様だけに可能です。その神様は、次のように言われます。
「私の思いはあなた達の思いと異なり、私の道はあなた達の道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道はあなた達の道を、私の思いはあなた達の思いを高く超えている」。(イザヤ書55・8~9)この神様の言葉は、神殿に上った2人の人に対するイエス様の言葉でより明らかになります。(参:ルカ18・9~14)
1人はファリサイ派の人で、もう1人は徴税人でした。ファリサイ派の人は、徴税人を見下しながら、神様の前で自分のことを誇らしげに語ります。一方の徴税人は、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈ります。イエス様は、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、遜る者は高められる」とおっしゃいました。徴税人の方が自らの真実を認識していたからです。
私達も、誰かから高い評価を受けた時、神様に栄光がありますように、また逆の時、自己嫌悪に陥ることなく再度立ち上がれますように祈りましょう。