子育ての実り

堀 妙子

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小児科の病院を開業している伯父が、往診のために自転車に乗って、わが家の近くを通ったとき、外にいた父を見つけた。伯父は無教会派の敬虔なクリスチャンだった。子供たちが診察室に入ると、安心して治ったような気になるような医師だった。

伯父は自転車を止めて、「ちょっとタケちゃんに聞きたいことがある」と言った。父は親戚の人たちから「タケちゃん」と呼ばれていた。私は家のなかにいたが、窓が開いていたのでカーテン越しに話が聞こえてきた。

伯父は「タケちゃんのうちの子供たちは、なぜ次々に洗礼を受けるのか?」と聞いていた。父はあっさりと伯父に、「父親が今ひとつだから、うちの子供たちは、天のおん父と取り替えたのだと思う」と笑いながら答えていた。

父は少し変わったところがあった。私が小学校のとき、父がオートバイに乗って迎えに来たことがあった。サングラスに半ズボン、指輪もしていて、私は同級生に「あなたのお父さんはギャングか?」と聞かれ、恥ずかしくて逃げるように家に帰ってきたこともある。

その父も洗礼を受けて亡くなった。父が亡くなるおよそ1カ月前は、私のほうが具合が悪く、父の車で病院に送り迎えをしてもらっていた。

父は運転しながら私に言った。「自分の夢を実現できなくてもよいのではないか。次の世代、もっと次の世代が夢を実現してくれれば」と言った。私の夢は叶わなかったけれど、神さまは長い闇の果てに、小さな鉛筆をくださった。書くこと。

父は私の夢は叶わないことを知っていたのだ。

今思うと、父のほうが早くから天のおん父と交流があり、「子育ての実り」の秘訣を教えてもらっていたのかも知れない。

子育ての実り

森田 直樹 神父

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どこかで聞いたお話ですが、お子たちは、3歳までに親孝行をしているそうです。一番育児に手がかかる時期ではありますが、赤ちゃんの屈託のない笑顔にご両親やご家族は癒されるのだそうです。このような赤ちゃんの笑顔も、子育ての実りの一つだと考えることができるでしょう。

幼子イエス様も、屈託のない笑顔を周囲にふりまき、ご両親であるマリア様やヨゼフ様をはじめ、多くの人々の心を癒したことでしょう。

しかしながら聖書によると、大人になったイエス様の行動は、マリア様や親せきの人たちには理解し難いものだったようです。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエス様は周りに座っている人々を見回して言われます。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ:3・32~35)

そして、イエス様は、神さまの御心を伝えたために、当時の宗教家たちのねたみによって、十字架にかけられてしまいます。マリア様にとって、十字架も子育ての実りとなってしまいます。この十字架には、イエス様が死に至るまで神さまの御心に従順であったこと、自らのすべてを捧げ尽くしたことが示されています。

さらに、イエス様の生涯は、十字架では終わりませんでした。復活という出来事を通して、死から命へと過ぎ越していかれたのです。

マリア様の子育ての実りは、究極的に、十字架を越えてもたらされた復活の栄光であり、自らの体も魂も神さまの救いにあずかることでした。これは、子どものために与え尽くした生涯が、神さまにすべて受け入れられて「良し」とされることを意味しているのだと私は思います。


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