伯父は「タケちゃんのうちの子供たちは、なぜ次々に洗礼を受けるのか?」と聞いていた。父はあっさりと伯父に、「父親が今ひとつだから、うちの子供たちは、天のおん父と取り替えたのだと思う」と笑いながら答えていた。
父は少し変わったところがあった。私が小学校のとき、父がオートバイに乗って迎えに来たことがあった。サングラスに半ズボン、指輪もしていて、私は同級生に「あなたのお父さんはギャングか?」と聞かれ、恥ずかしくて逃げるように家に帰ってきたこともある。
その父も洗礼を受けて亡くなった。父が亡くなるおよそ1カ月前は、私のほうが具合が悪く、父の車で病院に送り迎えをしてもらっていた。
父は運転しながら私に言った。「自分の夢を実現できなくてもよいのではないか。次の世代、もっと次の世代が夢を実現してくれれば」と言った。私の夢は叶わなかったけれど、神さまは長い闇の果てに、小さな鉛筆をくださった。書くこと。
父は私の夢は叶わないことを知っていたのだ。
今思うと、父のほうが早くから天のおん父と交流があり、「子育ての実り」の秘訣を教えてもらっていたのかも知れない。
しかしながら聖書によると、大人になったイエス様の行動は、マリア様や親せきの人たちには理解し難いものだったようです。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエス様は周りに座っている人々を見回して言われます。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ:3・32~35)
そして、イエス様は、神さまの御心を伝えたために、当時の宗教家たちのねたみによって、十字架にかけられてしまいます。マリア様にとって、十字架も子育ての実りとなってしまいます。この十字架には、イエス様が死に至るまで神さまの御心に従順であったこと、自らのすべてを捧げ尽くしたことが示されています。
さらに、イエス様の生涯は、十字架では終わりませんでした。復活という出来事を通して、死から命へと過ぎ越していかれたのです。
マリア様の子育ての実りは、究極的に、十字架を越えてもたらされた復活の栄光であり、自らの体も魂も神さまの救いにあずかることでした。これは、子どものために与え尽くした生涯が、神さまにすべて受け入れられて「良し」とされることを意味しているのだと私は思います。