子育ての実り

片柳 弘史 神父

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インドの貧しい人々への奉仕に一生を捧げたことで知られるマザー・テレサが、あるとき新聞記者から「あなたはなぜ、自分を犠牲にしてまで貧しい人たちを助けられるのですか」と質問された。マザーは次のように答えたという。「それは、わたしにとって当然のことです。わたしはそのように育てられたのです」。

マザーのお母さんは、いつもバスケットを下げて市場に買い物に出かけたが、ときどき空のバスケットを下げて帰ってくることがあった。マザーが「どうしたのお母さん」と尋ねるとお母さんは、「買い物をして帰ってくる途中で、Aさんと会ったの。Aさんの家では、昨日何も食べるものがなかったというから、買ったものを差し上げてきました。今日は、Aさんの家族が食べて、わたしたちが我慢する番よ」と答えるのが常だったという。

このようなお母さんに育てられる中で、マザーは、苦しんでいる人がいたら、自分を犠牲にしてでも助けてあげるのが当たり前と思う人物に育っていった。「苦しんでいる人がいたら、自分を犠牲にしてでも助けてあげずにはいられない」というマザーの奉仕の心はお母さんから引き継いだものだったのだ。

子育ては、自分育てだとよく言われる。思いやりのある子どもを育てたいなら、まず自分自身を思いやりのある大人に育てる以外にないのだ。自分が実践できていない高い理想を、子どもだけに求めても、それは無理なことだろう。子どもが思ったとおりに育ってくれないと感じるならば、それを嘆く前に、自分自身が自分の思ったとおりに生きられているかどうかを確認する必要がある。

「こんな大人に育ってほしい」と願えるような大人に、わたしたちはなれているだろうか。

子育ての実り

崔 友本枝

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ある方がこうおっしゃっていました。「子育ての実りを感じるのは、息子が自分から手を合わせて祈っている姿を見る時です。自立して、親より先に神に頼るようになったか、と感慨深いものがあります」と。各家庭には価値観があり、それに基づいた子育てをしていることでしょう。祈りを一番大切にしている家は、子どもに祈りが身についたとき「よかった!大切なことを自分のものにした」と胸をなでおろします。ある家庭では「どんな時でも人に迷惑をかけてはいけない」と教えるかもしれません。

我が家はどうだったかな、と振り返ってみました。父は仕事から帰ると毎日私を抱きしめてくれたのを鮮明に思い出します。私はしばらく無言で父の服の匂いをかぎ、愛されていることを味わいました。子供の時はまるでカエルのようにしがみついていましたが、中学生になると横抱きにしてくれたことを覚えています。いわゆる、「お姫様抱っこ」です。私は自分が大事にされているのを感じました。高校生になると、もう「だっこ」と言って腕を広げて父を見上げることはなくなりました。父はスキンシップだけでなく、私への愛情を「人格を尊重する」、という形でも表現してくれました。子供でも一人の人として認め、その年代なりの考えや気持ちを大切に受け止めてくれたのです。私の言葉を最後まで聞き、その後で父の意見を述べて自由に思ったことを言えるようにしてくれました。人として対等に扱われた喜びは、私の体に染みついています。

今、教員として生徒に接するとき、私は「一人の人間」として彼らとできるだけ対等にかかわり、その考えや気持ちを大切にしたいと考えています。


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