聖母マリア

末盛 千枝子

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子どもの時に教会学校でマリア様について習ったときのことが忘れられません。「マリア様はイエズス様のお母様だから、マリア様の言うことはイエズス様は何でも聞いて下さるのだから、どんなことでもお願い事があったらマリア様にお願いしなさい」と言われたのです。でも、それは私には何か物足りなく、大切なことが話されていないという思いが子供心にありました。

ずっとたって、自分がいろいろなことに悩み、信仰についてあれこれ思うようになってきて、あらためてマリア様についての思いがハッキリしてきたように思います。それは、新約聖書の中で、マリア様は自分にはわからない難しい場面で、何度も何度も胸騒ぎがしたり、不安に思ったり、一体これはなんのことだろうと考えたり、思いを巡らしておられます。そしてその度に、神様に信頼し「お言葉の通りになりますように」と言っておられるのです。マリア様の一生はこの連続だったと思います。それが、息子の十字架に従って歩き、ついに死を看取り、彼の残した弟子達とともに暮らし、この世の生活を終えるまで続いたのだと思います。そのことに思い至ったときに、私は初めてあの子どもの日に感じた物足りなさに納得がいきました。子供心にも、あの時の説明があまりにも子どもだましだと思っていたのだと思います。もちろん、最終的には、それはきっと正しいのでしょうが、心の何処かに、マリア様やイエズス様をそんなふうに利用するみたいなことはイヤだと思っていたのだと思います。もっと深くその悩みに思いを至さなければ、という思いがあったのだと思います。不思議なことです。

子育ての実り

橋本 勲 神父

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身二つとなって幾年月、我が子は片時も休むことなく、成長を続けていきます。自分の分身たちのこの世の巡礼は、時に産み落とした者の思惑をはるかに超えて、進められていくようです。

我が子は我が分身とはいえ、この世界に2人といないオンリーワンの人格を備えて、唯一の道を切り開き、唯一の巡礼道を刻んでいくことになります。

それは唯一でありオンリーワンの道ですので、その辿り方に前例などあろうはずがありません。それだけに最高のときめきの道であり、それだけに孤独で厳しい道行とならざるを得ません。

我が分身であるということはしかし、分身でなかった身一つの状態への渇きを誘います。もはや我が所有物ではないのに、一体であったあの頃を渇くように慕い求めるのです。

このことは決して人間の恥ずべき姿ではありません。むしろ自分もまた唯一の人格を備えた者として、その人格という人間の奥の間に住み給う神さまの姿を映しとった尊い姿と言ってもいいほどのものです。

一体であることにあこがれる人間、しかし現実には身二つとなり別れの悲哀を舐めざるを得ない人間。

人生の巡礼道の途上でつきまとうこの尊い葛藤を克服して、ルンルンの道を行く手立てはないものでしょうか。

母という字は2つの点を囲む形から成っています。この2点はもちろんいのちを育む乳房を表しています。ただもう1つの説もあって、母が味わうべき自分の分身との出会いと別れの涙だとか。

そうなると父という字の交差する線が支えるものも、2つの涙とこじつけたくなってきます。

身一つが身二つとなり、そこから始まる子育ての中で味わう涙こそ、子育ての実りそのものなのかもしれません。


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