人としての評価は、先のことわざに表現されるように、「人となり」に負うところが大である。であれば、学業もさることながら、人としての成熟度はもっと大事になってくる。
幼いころの育ちは、親御さんの立ち居振る舞いが、育ちの「教師」になる。いわば、「子育て」は「親育ち」と表裏一体ということができる。
そもそも大人と子どもはちがう。したがって、考えること、感じることも違ってくる。つまり、人にはそれぞれ、その時期、年齢にしか見いだせない成長段階があるという。その時を逸すると、完成されないまま通り過ごしてしまう。だから、幼児期の「子育て」は十分な配慮が必要なのだと言われる。
いつの時代もそうであろうが、人の育ちの教科書は、親であり、教師であり、大人であり、先輩であり、仲間であろう。すなわち、自分の身近で、「生き字引」とのかかわりができるということである。
イエスの弟子たちには、「イエスさま」がいた。そのかかわりの実りが、弟子たち自身の生涯に表現されている。イエスの言動のすべてが、「弟子育て」であった。
さて、今のわたしの育ちの実りはいかほどであろうか。人として信仰者として。
シスターになる前、年上の女性からハッとさせられることを言われました。「シスターは、自分の子どもを産んだり、育てたりすることがないから、意識的に大人になるための心がけが必要」というアドバイスでした。修道生活を続けていますと、その人が言わんとしたところが身にしみてわかるように思います。
母親になっている友人たちは、無理なく子どもや家族を中心に考えることが身についていると、折に触れて感じます。シスターの場合は、自分の家族でなく、神様を中心にした霊的なつながりを大切にし、何時でも何処でも、自由にあらゆる意味での隣人、他者に奉仕することを考えるはずです。
しかし、現実的には自己中心的になりやすく、自分の時間や都合を優先させてしまう誘惑に度々遭っています。
シスターであるが故に心を開き、助けを求めてくださる人々の出会いを大切にし、喜んで時間や労力、神様からいただく賜物を分かち合っていくこと。時には、苦い思いをしたり、自分の都合を後回しにしなくてはいけないことがあったりしても、そういうことが、神の国の実現のために、血縁関係を越えた愛の交わりに招かれる、奉献生活者としての使命であり、それに応えていくことが「実り」だと思っています。