子育てという仕事を通して、子どもだけでなく、子どもに関わる大人もまた人間的に成長し、幸せになっていけると思うのです。
誰もが感じるように、子どもを育てることは楽しくとも、決して簡単なことではありません。自分の弱さや疲れを感じながら、子どもと向き合う日々が続くことも多々あります。
であればなおさら、自分の両親も弱さをもちながら、自分を育ててくれたことに改めて気づきます。思い出をたどりながら、そこには親のかけがえのない愛があったと気づくでしょう。すると次第に親に対してこれまで以上に感謝できるようになります。
子育ては、神様から託された愛の仕事です。
子どもは、自分の良いところも悪いところも、すべて受け入れられることで、親のあたたかな愛を感じるものです。そして、ゆったりとした安心感と勇気をもって自立した人間に育っていけるようになります。
その愛は、神様の私たちへの愛と似ています。
神の子である私たちも、神様からまるごとそのままで愛されています。
私たちは子どもを育てながら、神様の大きな愛も感じることができます。そして、神様が愛するように、人を愛することができる人になっていけるのです。
いかに、人々が「子育て」に苦労しているかの表れであります。
教育勅語といえば、忘れられていた「徳育」を思い出します。
学校教育の三本柱、「知育」「体育」「徳育」。その「徳育」とは、「社会や共同体において、秩序を保つために自然な心ある行動を促す教育」と定義されており、「徳育」によって育成されることは、1、自分に関すること。2、他人とのかかわりに関すること。3、自然や崇高なものとのかかわりに関すること、の3つが挙げられています。
この順序を逆にし、まず、「自然や崇高なものとのかかわりに関すること」を徳育の第一眼目とし、崇高な世界観のもと、自然に親しみ、美しいものに感動し、人間の力を超えたものに畏敬の念を抱ける、尊い人生を確立したいものであります。
これは、キリストの精神でもあり、「子育て」の目的とし、その結実を期待したいものであります。