先取りする

片柳 弘史 神父

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3月のある日、仮設住宅で暮らす熊本地震の被災者の皆さんを、阿蘇のキャンプ場にお招きして「フグ鍋パーティー」を開催した。何かと不便な仮設住宅暮らしの疲れを、わたしが住む山口県の特産物であるフグでねぎらいたいと思ったのだ。山口県ではそれほど珍しくないフグ鍋だが、熊本の皆さんにはとても珍しいものだったらしい。参加してくださった方の中には、2週間も前から「フグ鍋、フグ鍋」と言って、この日を待ちわびていたという、ご高齢の女性もいらっしゃった。白い湯気を立てるアツアツのフグ鍋と対面したとき、その方は感動の涙を浮かべておられた。

何か特別なことが起こる日が、待ち遠しくて仕方がない。誰しもそんな体験があるだろう。待ちわびている時間、たとえばフグ鍋なら「初めて食べるフグ鍋。一体どんな味なのだろう」とにやにやしながら想像している時間は、もうすでに特別な時間だ。やがて来る幸せを待ちわびている時間は、もうすでに幸せのうちと言っていいだろう。

キリスト教徒は、いつかやって来るという「神の国」を待ちわびている。その国では、世界中のすべての人々が仲良く平和に暮らし、誰も差別されたり、無視されたりすることがないという。すべての人が同じ「神さまの子ども」として大切にされ、互いが互いを敬いながら兄弟姉妹のように暮らすという。そんな世界を想像していると、自然に笑顔が浮かんでくる。天国に行かなくても、天国の喜びを先取りすることはできるのだ。天国の喜びを先取りし、いつも幸せな笑顔を浮かべて生きている人の周りには、自然と笑顔の輪が広がってゆくだろう。そのようにして広がってゆく幸せこそ、やがてやって来る「神の国」の先取りであるに違いない。

先取りする

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

私が8歳の時、母の従妹の子が10歳で亡くなった。その子はミサの侍者もするような、すぐれた男の子であった。

おばさんの嘆きは大きく、毎日、泣き明かして暮らしていた。

5月の節句には墓に鯉のぼりを立て、雨の日には墓の上に傘をさしていた。

中高生になると、制服、制帽、カバンなど新調してその子の勉強机の傍に置いていた。

1日として忘れられずにいた。

ある日、母に連れられてその家へ遊びに行った。

「もう泣くなよ。あん子はさ、格別よか子じゃったけん、まっすぐ天国に行っとるとよ。そしてさ、あが(あなた)やとうちゃんがために祈りよっとよ。そしてさ、あがどんが天国へ来る日のために、天国で場所ばとって待っとっとよ。じゃけん、この世でさ善か行いばして、天国へ行かんばよ」と母は言っておばさんを慰め、励ましていた。

いつしかおばさんも元気になり、教会のためによく尽くしてくれるようになった。

息子が早くに天国へ行って、自分たちのために場所を取ってくれていると思うと元気になって日々を生きようと思ったらしかった。

人生の中で先取りすることは沢山ある。

母は「今日のことは今日のうちに、それでも余力があったら明日の分もしておけよ」と日常の些事の先取りを教えてくれた。

しかし、人生の最終目的は天国へ行くことであると、子どもの頃「公教要理」で学んだ。

私のゆかりの人たちで亡くなった人たちのことを思うと、どの人も天国で暮らしているだろうことが想像される。その人たちが、あとに続くゆかりの人たちのために、せっせと天国の場所を先取りしてくれていることを想像すると、心楽しくなってくる。


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