何か特別なことが起こる日が、待ち遠しくて仕方がない。誰しもそんな体験があるだろう。待ちわびている時間、たとえばフグ鍋なら「初めて食べるフグ鍋。一体どんな味なのだろう」とにやにやしながら想像している時間は、もうすでに特別な時間だ。やがて来る幸せを待ちわびている時間は、もうすでに幸せのうちと言っていいだろう。
キリスト教徒は、いつかやって来るという「神の国」を待ちわびている。その国では、世界中のすべての人々が仲良く平和に暮らし、誰も差別されたり、無視されたりすることがないという。すべての人が同じ「神さまの子ども」として大切にされ、互いが互いを敬いながら兄弟姉妹のように暮らすという。そんな世界を想像していると、自然に笑顔が浮かんでくる。天国に行かなくても、天国の喜びを先取りすることはできるのだ。天国の喜びを先取りし、いつも幸せな笑顔を浮かべて生きている人の周りには、自然と笑顔の輪が広がってゆくだろう。そのようにして広がってゆく幸せこそ、やがてやって来る「神の国」の先取りであるに違いない。
1日として忘れられずにいた。
ある日、母に連れられてその家へ遊びに行った。
「もう泣くなよ。あん子はさ、格別よか子じゃったけん、まっすぐ天国に行っとるとよ。そしてさ、あが(あなた)やとうちゃんがために祈りよっとよ。そしてさ、あがどんが天国へ来る日のために、天国で場所ばとって待っとっとよ。じゃけん、この世でさ善か行いばして、天国へ行かんばよ」と母は言っておばさんを慰め、励ましていた。
いつしかおばさんも元気になり、教会のためによく尽くしてくれるようになった。
息子が早くに天国へ行って、自分たちのために場所を取ってくれていると思うと元気になって日々を生きようと思ったらしかった。
人生の中で先取りすることは沢山ある。
母は「今日のことは今日のうちに、それでも余力があったら明日の分もしておけよ」と日常の些事の先取りを教えてくれた。
しかし、人生の最終目的は天国へ行くことであると、子どもの頃「公教要理」で学んだ。
私のゆかりの人たちで亡くなった人たちのことを思うと、どの人も天国で暮らしているだろうことが想像される。その人たちが、あとに続くゆかりの人たちのために、せっせと天国の場所を先取りしてくれていることを想像すると、心楽しくなってくる。