また、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録にも、イザヤと同じ書き方で、こう記しています。「その後、私が見ていると・・玉座に座っておられる方がおられ・・・その周りにそれぞれ六つの翼をもった四つの生き物がいた。彼らは昼も夜も絶え間なく言い続けた。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神なる主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と。(参:4・1~8)
天使たちが賛美し続けるほど、神の聖性は神の無限の属性でしょう。私達も洗礼によって、その聖性に与っていますが、神様の恵みと私達自身の気遣いで補わなければならないでしょう。
しかし、神なら、その聖性、その愛と憐みに限度はありません。そして全能の神として、「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」ということは私たちの過去・現在・未来の一切に関わって下さる方なのです。
私も天の国へ行けば、魂も絶え入るほどの喜びから、「聖なるかなー」と歌うと思います。その時、この地上で、ベートーベンやマーラーを演奏してきた事は、その"聖なるかな"の先取り練習にもなっているのではないかと思うのです。
私になにができるでしょう。
せいぜい原発反対の署名、エコ生活を心がけるくらい・・・・。
でも、マザーテレサのなさっている仕事を「そんなことをしても政治が変わらなくては焼け石に水だ」と言ったひとに、マザーは、
「そのとおり。でも、大海も、一滴の水からなりたっているのです」と答えています。
では私の場合の一滴は・・・ 。
エアコンはもちろんなし、石油や電気ストーブも極力控え、キャンプ用の寝袋に湯たんぽをいれて机に向かいます。猛烈に寒い日は湯たんぽふたつ、抱いてねます。
わが食生活なんて大げさなものではありませんが、自然のものを自然のなかでいただきます。
庭のタンポポ、野性のフキ、ノビル、スカンポ。サラダによし。 野草ラーメンもなかなかのもの、みんな神様の贈り物ですね。
自然の恵みはまだまだあります。
戦中派の私の幼年時代は、この状況を先取り?したみたいです。
防空壕で母と寝て、ごはんはスイトンとおやき、ジャガイモの代用食。あまりに幼くて、戦争の悲惨さはわかりません。むしろ母とおままごとをしているようで楽しかったのです。
提案です。カレンダーに「旧石器時代のような『エコの日』」を設けてはどうでしょう。