その時から私はカトリックに呼ばれた。キリスト教は一つとはいえ、カトリックは私に合っていた。司祭が2年間、毎週2時間、キリストの教えを徹底的に教えてくださり、26歳の時にカトリックに改宗した。この変遷は、のちにカトリックのマス・メディアで働くために、キリストがそうさせてくださったと思っている。
キリストに呼ばれて、洗礼を受けて生きていくというのはどういうことかと時々考えてみる。キリストは、宝石の原石であった私を多くの苦難や試練を送ることによって磨きをかけ、今やキラキラ輝く宝石にしてくださったような気がしてならない。イエスは、宝石の私を粗末な紙で包み、私の行く先々に贈り物のように置いてくださる。
小さなアパートに戻れば、教会をお掃除していた時に見つかった「み心のイエス」のご像が待っている。一メートル近くあるご像なので、そばで祈ると、イエスと電話で会話をしているような気持ちになる。イエスのみ心は棘で囲まれ、愛の炎が燃えている。毎朝、出かける時に祈ると、イエスから派遣されるような気持ちになる。
イエスは復活の先取りの存在として、日々、受難を喜んでささげるようにと私を促す。
それから少し日は過ぎて、妻の父の通院に付き添い、昼食を共にした後のコーヒータイムで、私は鞄から取り出したヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』の頁をパラパラ捲ると、次の言葉が目に入りました。
「確信を持ちなさい。自分が願ったものは必ず手に入れられるという傲岸不遜なほどの確信を。そうしさえすれば、願いはやがてあなたの現実となりますから」。
向かいに座る車椅子の義父に、わかちあうように朗読すると、「傲岸不遜なほど、という所が大事だねぇ」と、しみじみ語りました。
私の父が以前、「天才といわれる人でも、脳の数パーセントしか使っていないそうだよ」と言っていましたが、双方の父の発言をまとめると、【人は未知数の可能性を秘めている】ということになるでしょう。もちろん、願いのすべてが天の望みに一致して叶うとは限りませんが、前向きなビジョンをもっているほうが、だんだんと豊かな毎日になってくるような気がします。そういうわけで、最近の私は、「きっと上手くいく」という希望の種を心の中に蒔いてから、玄関のドアを開き、日々の場面へと出かけています。