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黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

私達夫婦もいよいよ"高貴なる"高齢者、つまり、やんごとなき身分に列せられる運びとなりました。

最近は長生きも全然珍しくないので、私なども、すぐ主の御前に立つという緊張感はまだまだ薄い感じがしますが、そうそう遠い話でもない、という想いも確かに強くなって来ています。

こうなって来ると、旧約聖書のイザヤ書に出てくる「見た」との言葉が気になります。「私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを、見た」。(6・1)そこには天使たちがいて、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(6・3)と呼び交わしていた。

また、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録にも、イザヤと同じ書き方で、こう記しています。「その後、私が見ていると・・玉座に座っておられる方がおられ・・・その周りにそれぞれ六つの翼をもった四つの生き物がいた。彼らは昼も夜も絶え間なく言い続けた。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神なる主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と。(参:4・1~8)

天使たちが賛美し続けるほど、神の聖性は神の無限の属性でしょう。私達も洗礼によって、その聖性に与っていますが、神様の恵みと私達自身の気遣いで補わなければならないでしょう。

しかし、神なら、その聖性、その愛と憐みに限度はありません。そして全能の神として、「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」ということは私たちの過去・現在・未来の一切に関わって下さる方なのです。

私も天の国へ行けば、魂も絶え入るほどの喜びから、「聖なるかなー」と歌うと思います。その時、この地上で、ベートーベンやマーラーを演奏してきた事は、その"聖なるかな"の先取り練習にもなっているのではないかと思うのです。