先取りする

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

一生の間に、私たちは度々、天国の永遠の幸福を先取りするかのように味わうことができます。

たとえば、自分の罪がゆるされるときです。

一般に罪は、私たちを悲しみに沈めます。罪を犯す時、表面的にあるいは一時的に快楽を味わうこともありますが、それは人間の本質的な喜びではなく、永遠の幸福と結びつくものではありません。

罪の状態にある時、人は良心に痛みを感じ悲しみや憤りを覚えます。その痛みや悲しみを拭い去ろうと、酒や薬におぼれてみたり、快楽の奴隷になったりします。しかし、感覚がマヒすることで一時的に忘れることができても、罪自体を拭い消すことができず、本質的な痛みや悲しみはいつまでも残ります。そして、永遠の幸福を得る権利をなくしてしまうこともあるのです。

罪がゆるされるには、おかした罪を悔い改めなければなりません。

神さまは、私たちの悔い改める心を決して軽んずることはありません。

「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)

神であるキリストは、私たちの罪をゆるし、天国への門を開くためにこの世に来られた方ですから。そうして、私たちを天国の永遠の幸福に導きいれたいと考えておられます。

カトリック信者の私は、本当の幸福を得るための道は、洗礼を受けて神様に立ち戻ることだと信じています。

洗礼によって、それまでのすべての罪がゆるされ、洗礼後におかした罪は、ゆるしの秘跡によってゆるされます。

 

そうして迷った羊、放蕩息子である私たちは、恩恵とともに喜びを取りもどすことができます。

その喜びは、天国で神さまと共にある永遠の幸福につながっていくものなのです。

先取りする

三宮 麻由子

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聖書のなかでイエスは、明日のことは思い煩うなと教えておられます。(マタイ6・34)ちょっとほっとする言葉で、私は好きです。

ところで、このような教えが説かれたのは、すでに2千年前、おそらくはもっと前の時代から、多くの人が未来を心配していたからでしょう。多くの人が先取りすることばかりを考え、悩み、足を引っ張り合ってしまいがちになる。イエスはそこを見抜き、神様に委ねて平和に生きようよ、と語りかけられたような気がします。

けれど実際には、ある程度先取りする努力をしなければ私たちは生きていけません。

たとえばイエスは、何を食べようかなどと悩まずに神様にお任せしなさいと教えておられます。でも、それを文字通り実行して買い物にも行かず、料理もしないで誰かが食事を届けてくれるのを待つことはできません。イエスの時代は特に、男性は女性に食事を作ってもらっていたと思われます。だから男性のイエスは、女性よりも暮らしの悩みから遠かったかもしれません。そのため食事は悩みのうちに入らなかったのでしょう。

これに対し、女性として家族の食事を管理していた聖母マリアが明日のパンの心配をしなかったとは、私には思えないのです。

では、先を急ぐなというイエスの教えは何を意味するのでしょう。

私には、それは「悩みすぎに注意」と読めます。危機管理ゼロというのはいつの時代にもナンセンス、ですが危機管理には限界があり、100%先取りはできない。その場合は、悩むのを止めて腹をくくるしかないのです。

イエスの教えは、明日について悩むなと言いながら、実はそうした「悩みの向こう」まで見通した「先取り」そのものに思えるのでした。


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