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先取りする

土屋 至

今日の心の糧イメージ

旧約聖書のほとんどはヘブライ語で書かれているが、新約聖書はギリシャ語で書かれた。新約聖書がイスラエルの言語のヘブライ語ではなく、また、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の言葉であるラテン語でもなく、なぜギリシャ語で書かれたのか、キリスト教の歴史では大いなる謎であるらしい。

普通ならば当然、旧約聖書と同じように、聖書の舞台となったイスラエルの言葉である、ヘブライ語で書かれるはずである。イエスも、ギリシャ語ではなくヘブライ語で説教された。それなのになぜわざわざ外国語であるギリシャ語に翻訳されて書かれたのか、確かにこの時代の東地中海世界の共通語はギリシャ語ではあったが、それでもとてもふしぎな感じがする。

しかし、新約聖書がギリシャ語で書かれたことにより、キリスト教は東地中海の世界に広がっていき、さらにはローマ帝国の宗教となる。ローカルな民族宗教ではなく、普遍的な世界宗教となるのである。もし新約聖書がヘブライ語で書かれていたならば、イスラエルの民族宗教の枠を抜け出せなかったのではないか、今のように世界にあまねく広がっていくことはなかったのでは、と思わせる。

このことについては、新約聖書を書こうとしたときに、先を見通し、未来を先取りした知恵者がいたことを示している。新約聖書の中で一番最初に書かれたのは、イエスの教えや生き方を書いた四つの福音書ではなく、パウロの手紙であるから、その知恵者はやはりパウロなのだろうか。あるいは、パウロ個人ではなく、初代教会全体で一致していたのか、あるいは教会がいうように、聖書は神の言葉であるから神や聖霊の導きがあってそうなったのか、興味・関心の種が尽きない。