私たち一人一人は、両親を通して、命を授かりました。そして、その両親も、それぞれの父親、母親を通して命を授かってきました。そして、さらに、自分からみて祖父母にあたるひとたちも、さらにそのご両親を通して命を授かって来たのです。
このように、この私が生まれるためには、命の始まりから途切れることなく続いてきた人々の命の繋がりが不可欠だったのです。
言い換えれば、この私が生きているという事実は、気の遠くなるような命の連鎖が確かに存在した、ということを意味します。途中で誰か一人が欠けてしまえば、私は存在していないことになります。
ここからわかることは、命は決して「この私」が作り出したものではなく、「この私」だけで生きているわけでもないということです。
加えて、たとえ直接の血縁が無かったとしても、私たちは日々の生活の中で、多くの人たちと関わり、多くの人たちの世話になって生きています。また逆に、私たちは誰かを助け、誰かを支えていきます。
もし、私たちが「この私」という殻から抜け出して、命を考えることができたなら。あるいは、この命を生きることができるなら、私たちの生き方自体も変わっていきます。
そこには、違う視点から、人生をみつめ、命を考えることができる隙間ができるのではないかと私は思います。その時、人間を超える存在へと目が開け、他者へと手を差し伸べる生き方が始まるのだと私は思います。
イエスは、この新しい生き方について、次の様に告げます。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9・24)