「切支丹大名の右近は人々から尊敬されていましたが、天は更なる霊的な成長を彼に求めていました。それは、自分が努力することも大事だけど、それ以上に自らの心の真ん中に十字架を据え、天の想いの望むままに身を任せきって生きるということです。戦場での負傷をきっかけに、祈りの中でそのことに気づき始め、豊臣秀吉の追放令で流罪となり殉教に至るまで、右近はその霊的な経験を深めていきました」と。
殉教とは切支丹のみではなく、現代においても同じ次元のことがあると思います。10年前に若くして世を去ったある女性歌手を、私は想います。彼女の母は私の父と小学校の同級生で、5年前に初めてお逢いして娘さんの話を伺いました。彼女は白血病の宣告を受けた時、泣き崩れ、深夜の病室で死の恐怖をじっと見つめ・・・それでも最期まで希望を失わず、激しい抗がん剤の副作用にも耐え抜きました。そして、命ある限り、切なる想いを届けようと、ボイスレコーダーに向かって歌い続け、〈生きるって素晴らしい〉というメッセージを遺しました。
この原稿を書く前日、私は彼女の墓に参り、花のブーケを供えました。黄色い花々の中心に一輪の小さな太陽のようなオレンジの花が咲いているのを見た時、私は感じました。彼女は今も輝きの中で歌っているーーと。