画家としての人生を50年近く歩んできた私にとっての教訓は、ほとんど過去の時代を代表する、数名の画家達の人生と作品から得られるものです。ことに思うように筆が運べず、制作のスランプに陥った時には、歴史上有名な作家の制作年譜をたどります。どんな名手でもこの時期がスランプと思える時期を発見できるものです。すると勇気がわいてきてその作家を身近に感じ、一緒に乗り越えるつもりで丁寧に画集を見ていく内に、いくつかの制作のヒントが見えてくるものです。
恐らく大抵の人が自らの人生の教訓とするのは、自分と似た職業や環境の中で、尊敬する生き方をした先人の言葉なのだと思います。
その上で、どんな職業であろうと性別も国籍も超えて、普遍的な教訓を得られるのがキリストの御生涯であり、聖書に書かれているキリストがして下さった譬え話の数々です。
特にゲッセマネでの祈りにある「しかし、私の願いではなく、御心のままに」との主の言葉(マタイ26・39)と「10人の乙女」の譬え話の最後「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(同25・13)は終末へ向かう時の最高の教訓です。
だから、私の小さい時の我が儘な性格も、いい加減さが好きな傾向も、何が好きで何が嫌いかもお見通しなので、そんな土台の上に私が、どんな人生を描けば良いか判っていると思っていました。
ところが、叔父は違いました。私のマイナスだと思っていた性格が、私の心のどんなところから沸き起こってくるのかを見据えたものでした。叔父は私が自分を見る以上に、もっと深いところから私を見ている、だから叔父の言葉に信頼しよう。その時そう思ったのが今でも心に深く刻まれています。
その時、人間の言葉や行動は、見たり聴いたりする以上に、その言葉や行動が何を源として出てくるのかを探し出すことが、相手を良く理解することなのだという、人を見るための人生訓が私の心に刻まれた瞬間でした。
何気ない会話の中で、何気ない仕草の中で、その人の深い泉がどこにあるかを探すことが、その後の私の他人との出会い方になりました。それは、今の私の仕事でも活かされています。幼稚園で、初対面の50人ぐらいの子供ならば、それぞれ違った言葉で祝福をすることが出来る特技です。
自分の深さと関わっていることを求めるこの特技は、祝福を受けた子供達の態度に表れるのを見て、叔父にいつも感謝しています。