人生の教訓

服部 剛

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私と妻が結婚する前、キューピットになってくれた親友の女性から、昨年、哀しい知らせが届きました。それは16年もの間、彼女の傍らにピッタリ寄り添い、息子のように苦楽を共にしてきた猫の耕助が、クリスマスの夜、天国へと旅立ったというものでした。

子供のいない彼女は耕ちゃん亡きあと悲嘆に沈み込み、眠れない日々を過ごしました。

訃報に接した私達は彼女にかける言葉もなく、妻は白い花束を買い求め、私は詩を添えた手紙を認め、深夜、車で彼女の自宅まで駆け付けると、それらを玄関先に置いて帰ってきました。

数日後、外出先の私に妻から電話があり、「彼女からお礼の写真とメールが届いて...花束に囲まれた遺影の隣に薄らと耕ちゃんの面影が・・・」。写真を見ると、確かに見覚えのある縞模様のぷっくりした体が写し出されており、ヤンチャな瞳で耕ちゃんがこちらを覗いているではありませんか。

最初の月命日。妻の携帯電話には久々に彼女から着信がありました。折り返した妻が恐る恐る写真の件を伝えると、彼女は気づいておらず驚愕、喪に服していた一カ月の暗黒の闇に光の出口が見えたかのように、微笑みの声を上げました。「耕助、今もいるのね」。妻から受話器を受け取った私に彼女は「入院先の獣医さんに『もう長くないでしょう』と言われ、せめて自宅で最期を過ごさせたくて胸に抱いて帰宅した際、ぐったりしていた耕助が急にカッと目を見開き私に顔を向けると、断末魔の鳴き声で叫んで・・・自分亡き後の私を『しっかりしろっ!』と叱咤するようだったわ」。

写真の姿とあの日の鳴き声----。肉体を脱いだ耕ちゃんが、これから彼女の人生の道案内役としてずっと一緒に歩いてゆくであろう姿が、私には温かな光と共に視えるのでした。

人生の教訓

越前 喜六 神父

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人生をどういうふうにとらえ、考えるかは、個々人によって違うと思います。そして、何が良くて、どっちが優れているかは、その個人の価値判断によることでしょう。

わたしは、子どものときの無常感から抜け出るために、キリスト教が教える神を信仰しました。そして、お祈りをすることで、多くのお恵みを受けてきました。

その教えによれば、人生とは、己自身の真実に気づき、悟るためのチャンス、機会のことだと理解しています。たとえ、人が神のかたどり、似姿であると教えられ、そう信じたとしても、それだけでは、単なる概念的な知識に過ぎません。それが実際にどういう真実なのかを体験し、実感し、気づくことによって、真の満足や幸福が享受されるのではないでしょうか。無知と知識の間には、雲泥の差がありますが、知識と悟りの実体験の間にも、人と神の差があります。

旧約聖書の冒頭にある「創世記」(1・27)には、人間は本来、神の似姿として創造されたとありますから、各人それぞれに必要なものは与えられていて、みな、神の種子としての存在になりうる可能性があるのではないでしょうか。

問題はその真実に開眼する、すなわち体験的に知るかどうかではないでしょうか。それならば、人生というのは、本当の自己に目覚めるために与えられたチャンスととらえることができるでしょう。

私にとって、人世の教訓とは、この世の吉凶禍福もみなそのための試練と考え、「何かに成る」ことではなく、「何かである」ことに気づくことです。それが悟るということです。


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