人生の教訓

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

不安を抱えながら生きるのが人間の定めのようですが、その不安の取り扱い方を知らないと無駄な苦しみが激増するようです。理想を高く掲げれば掲げるほど、その不安感も大きくなります。不安感とは理想と現実のギャップといわれるゆえんです。

さて私の書斎から野川と森が見えるのですが、その野川に時々白鷺が狩りに飛んできて、じーっと水の中に立っています。見ていると、魚が足元に寄って来るらしく、それを上手についばみ、実に美味しそうに、天を見上げながら飲み込みます。すると遠くから、その様子を見ていた野鴨が、ぎゃあーぎゃあー鳴きながら白鷺の足元まで寄ってくるのです。白鷺はしばらく我慢しているのですが、あまりにも煩いので、ついつい、こらーと追い立てると、野鴨はいったん逃げるのですが、また側に寄ってきます。野鴨が来ると魚が逃げてしまいます。

この風景を見ながら私はふと或る事に気付きました。

私は何とせっかちな人間だろう、と。理想が実現するのは、どんな場合でも「時」があることを忘れていたようです。

こんなに努力したから、もうそろそろ実現していいはず、そう考えた私は、早急に焦って、手を打ちました。それが失敗の原因だったのです。神様に文句を言い、友人知人の支援にすら文句を言っていました。5人兄弟の末っ子の私の悪いくせが、まだあるようです。

野川のあの白鷺のように静かに時を待とうとしみじみおもいました。あの白鷺のように静かに立っていると、野鴨のように煩い人々、周囲で騒ぎたてる人々もいますが、慌てることなく、あせる事なく、神様を恨むことなく、しずしずと時を待とうと反省しました。

野川の白鷺が豊かな人生の教訓を示唆してくれました。

人生の教訓

三宮 麻由子

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聖書のなかでイエスは、「あなたが赦せば神様もあなたを赦す」(参:マタイ6・14)と話されました。中学生のとき初めてそこを読み、赦されるために赦すのは交換のようで、本当に良いことなのだろうかと不思議に思いました。もちろん、そんな意味ではありません。

赦す心を持つ方法の一つに、気持に余裕をもって人と接するということがあると思うのです。

たとえば満員電車に乗るとき、私の経験では、悩みなどで気持が棘々していると、なぜか前方不注意の人がぶつかってきたり、乗り合わせた人と歩調が合わずに突き飛ばされたりすることが多くなります。一方、たとえ頭のなかでいろいろ考えていても、気持に余裕があり、周りに気を配ることができているときは、空いている席を教えていただいたり、譲っていただけたりします。歩調の合わない人と行き会っても避けてくれたり、手を貸しましょうかと声をかけてくれることさえあるのです。

おそらく気持に余裕がないとき、私の顔の表情も刺々しくなっているのでしょう。反対に、周りに気を配れているときにはにこやかなのでしょう。

大きな赦しにはもとよりエネルギーが要りますが、日常の小さな赦しも決して簡単ではありません。それができるには、気持を自分でコントロールできなければなりません。しかし、一度成功するとコツが分かり、制御率が上がるようです。そして私が赦すと、私も赦されていきます。対人関係も一段と良くなるように思えるのです。

私の気持に余裕があれば周りの人にも良い影響が生まれ、ひいては私自身に赦しが返ってくるということなのでしょう。「神様も赦す」とは、そういうことなのかもしれません。

気持に余裕を。電車のなかで学んだ何気ないことですが、これが私の人生の教訓となっています。


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