人生の教訓

崔 友本枝

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4年ほど前、夫の母がカトリックの洗礼を受けた。私たち夫婦はカトリック信者だが、母に積極的にキリスト教について話したことはない。母は熱心な仏教徒だったからだ。情熱を傾け、大切にしている信仰を尊重したかった。ずっと仲良くやってきたのに、宗教のことで嫁姑問題が起きるのを避けたかったこともある。

私たちは両親のためによく祈った。1年に1度、お正月には田舎に会いに行く。ある夏、私たちはお正月でもないのに珍しく母に会いに行った。8月なので聖母マリアの大祝日のミサに誘った。母が教会に行ったのはその一度きりだった。

その後、急に私たちに会いたくなり、「教会に行けば2人に会えるような気がして」1人でバスに乗り、ミサにあずかったという。ちょうど復活徹夜祭だったようだ。1年後、母は洗礼を受けた。

本当に驚いた。なんと不思議なことだろう。聖書のことをほとんど何も知らないまま、ただ1人で教会に通い、ミサにあずかったらしい。それが1年間続いたら、自然に洗礼を望むようになったという。神様が直接母を引き寄せ、抱きしめ、導いてくれた。私たちがしたのはお祈りだけだったから。

これと反対に、神様の道について懸命に説明したが、疲れるばかりで現実には何も実りがなかった経験もある。母の洗礼を考えるとどんなことよりも祈りが大きな力をもつ、という教訓を得る。母はこう言ったからだ。「今までも懸命に祈ってきたけれど、いつも空しかったの。でも、イエス様、マリア様を知ってからは心が満たされて、救われたってわかったのよ」。

今は、母に会うと一緒にお祈りし、聖書の話が出来るのがとても嬉しい。

人生の教訓

シスター 山本 久美子

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高校卒業後の進路を決める時、私は、周りの勧めのままに、何の苦労もせず進路先を決めてしまいました。残り少ない高校生活や卒業旅行をそれなりに楽しみ、四月には入学式を迎えました。

前途洋々で嬉しいはずの入学式の当日、私の心は、全然晴れませんでした。それどころか、「こんなはずではなかった」という後悔の念で一杯になり、悔し涙さえこみあげてくる自分自身に驚きました。ひたすら受験勉強にいそしみ、晴れて念願の大学に合格した周りの友人たちや、たとえ自分の思い通りの結果が得られなくても、精一杯自分の力を尽くしてチャレンジする人たちが輝いて見え、心から羨ましく感じました。

そして、しばらくは、無責任にも安易な道を勧めた他人に責任転嫁をし、腹を立て、すっきりしない気持ちで大学生活を過ごしました。しかし、ふり返りますと、苦労や挑戦を避けてきたのは、他でもなくこの私だと実感せざるを得ませんでした。

私は、この入学式の悔しさと後悔の涙を通して、「するのは失敗、何もしないのは大失敗」ということを改めて痛感させられ、「自分の人生、自分で生きる」ということを心に誓ったのです。

もちろん、それぞれの人生は、多くの人々との出会いや関わりによって支えられ、豊かにされていくものに違いありませんが、それは、創造主である神様から与えられている人生を自ら引き受け、何かをする時、自分で選び、責任を取るということが核になると、私は感じています。

私たち一人ひとりは、父なる神によって、ユニークな存在として創られ、今も、神様の大きないのちに生かされています。

「自分の人生を生きる」ことは、そのいのちへの私たち側からの応答なのです。


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