その後、急に私たちに会いたくなり、「教会に行けば2人に会えるような気がして」1人でバスに乗り、ミサにあずかったという。ちょうど復活徹夜祭だったようだ。1年後、母は洗礼を受けた。
本当に驚いた。なんと不思議なことだろう。聖書のことをほとんど何も知らないまま、ただ1人で教会に通い、ミサにあずかったらしい。それが1年間続いたら、自然に洗礼を望むようになったという。神様が直接母を引き寄せ、抱きしめ、導いてくれた。私たちがしたのはお祈りだけだったから。
これと反対に、神様の道について懸命に説明したが、疲れるばかりで現実には何も実りがなかった経験もある。母の洗礼を考えるとどんなことよりも祈りが大きな力をもつ、という教訓を得る。母はこう言ったからだ。「今までも懸命に祈ってきたけれど、いつも空しかったの。でも、イエス様、マリア様を知ってからは心が満たされて、救われたってわかったのよ」。
今は、母に会うと一緒にお祈りし、聖書の話が出来るのがとても嬉しい。
そして、しばらくは、無責任にも安易な道を勧めた他人に責任転嫁をし、腹を立て、すっきりしない気持ちで大学生活を過ごしました。しかし、ふり返りますと、苦労や挑戦を避けてきたのは、他でもなくこの私だと実感せざるを得ませんでした。
私は、この入学式の悔しさと後悔の涙を通して、「するのは失敗、何もしないのは大失敗」ということを改めて痛感させられ、「自分の人生、自分で生きる」ということを心に誓ったのです。
もちろん、それぞれの人生は、多くの人々との出会いや関わりによって支えられ、豊かにされていくものに違いありませんが、それは、創造主である神様から与えられている人生を自ら引き受け、何かをする時、自分で選び、責任を取るということが核になると、私は感じています。
私たち一人ひとりは、父なる神によって、ユニークな存在として創られ、今も、神様の大きないのちに生かされています。
「自分の人生を生きる」ことは、そのいのちへの私たち側からの応答なのです。