誰かの発言を批判したり、説教したり、アドバイスしたり、解釈したりすることはしないで、そのままを受けとめて共感します。
主語は常に「私」です。主語を「あなた」にすると説教になったり批判や非難になったりします。主語を「彼・彼女」にすると「うわさ話」になってしまいます。
ここではなんでも分かち合えます。もちろん、怒りや憂鬱さや悲しみなどのネガティブな気持ちも分かち合い、時にはともに涙を流すこともありました。
夫婦揃って参加することができたら最高です。夫婦げんかも分かち合い、ここで和解することもあったし、対立がますます激しくなって仲裁に入ってもらったこともあります。
私は妻と一緒にこの集まりに30年ちかく参加してきました。人生の半分近くをこの集まりとともに生きてきたし、おそらく生きている限り続いていくでしょう。
「定期的な集まりでの分かち合い」を30年続けるとどうなると思いますか? 兄弟や親戚以上のあるいは親友以上のきずなができあがります。ともに生きる小さなコミュニティ・共同体ができあがるのです。
ちょっと大げさな表現かもしれないけれど、私は一人だけの自分の人生を生きるだけにとどまらず、メンバーの数だけの人生を生きていくようなとてもぜいたくな喜びを感じています。
テレビで、しばしば、赤提灯で、オイシク、タノシク、一杯やっている若者たちの健気な姿がクローズアップされますが、これは、表の激務を癒す裏の癒しの場面に過ぎません。オイシク、タノシクは、今の世代のモットー。人の感覚や意識は、その人の育まれた時代背景に左右されますが、今日の超高齢化社会においては、人々の意識、感覚の違いが、ますます大きくなっています。
戦争とその苦しみ、悲しみ、命の尊さを痛感した大正、昭和一桁生まれの超高齢者から、戦争を知らない戦後生まれの団塊の世代、「人生エンジョイ」のポスト団塊世代、同じく「楽しいことがなにより」とする新人類世代、「超安定志向」のさとり世代、そして、29歳以下の「つくし世代」。最も若い「つくし世代」では、周りの人が喜ぶように「人に尽くす」という喜ばしい特徴があります。
このように世代の移り変わりをみますと、各世代の交流と協力によって、新たな時代が、もたらされる兆しを感じます。人生経験80数年、昭和一桁からのジュニア世代への教訓は、「未来に対して、なんらかの責任ある人間、それぞれ、自らの存在意義を悟り、祈りと信念を持って、気高い人生を全うせよ」ということ。誠に深遠な探求の道のりでもあります。