その教えによれば、人生とは、己自身の真実に気づき、悟るためのチャンス、機会のことだと理解しています。たとえ、人が神のかたどり、似姿であると教えられ、そう信じたとしても、それだけでは、単なる概念的な知識に過ぎません。それが実際にどういう真実なのかを体験し、実感し、気づくことによって、真の満足や幸福が享受されるのではないでしょうか。無知と知識の間には、雲泥の差がありますが、知識と悟りの実体験の間にも、人と神の差があります。
旧約聖書の冒頭にある「創世記」(1・27)には、人間は本来、神の似姿として創造されたとありますから、各人それぞれに必要なものは与えられていて、みな、神の種子としての存在になりうる可能性があるのではないでしょうか。
問題はその真実に開眼する、すなわち体験的に知るかどうかではないでしょうか。それならば、人生というのは、本当の自己に目覚めるために与えられたチャンスととらえることができるでしょう。
私にとって、人世の教訓とは、この世の吉凶禍福もみなそのための試練と考え、「何かに成る」ことではなく、「何かである」ことに気づくことです。それが悟るということです。