けれども、私達が過去を振り返ることを怠れば、ナルシズム、つまり自己陶酔に陥る危険があります。私達が、もしナルシズムに陥れば、あたかも自分の人生の中で、過ちを犯したことがないかのように振る舞うようになり、失敗を隠したりするようにもなります。国を司る人がナルシズムに陥れば、歴史を美化したりすることに繋がります。
過去を振り返るため、また自分の失敗を失敗と認める為に必要なのは、自己価値感情です。たとえ失敗しても、「大丈夫だよ。もう一度立ち上がって前進しようね」と言ってくれる存在が必要です。
聖書の中に次のような言葉があります。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私達の内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます」。(ヨハネの第一の手紙1・8〜9)
私は、自分の失敗を語る事のできる相手、また、それを言い表しても、受け止めてくれる相手を見出すことができたことに感謝しています。
ところが、授業は予定の1時間で終わらず、私は無断で次の時間も続けました。ついに給食のチャイムが鳴り、「魚屋さんは、なぜこんなに工夫をしているのでしょう、考えてきなさい」と言って終えました。つまり、時間を2倍以上かけ、一番大事なことを宿題にしてしまったのです。言語道断、前代見聞のひどい授業でした。
放課後の研究討議では、参観者20数名から容赦のない言葉を浴びました。思慮も配慮も足りなかった私は、ただ小さく縮こまるしかありませんでした。
しかし、その中で次のように言ってくださった教官がいたのです。「時間がかかったのは、中井君が子どもの発表を、最後まで聴いていたからです。教師になっても、子どもの話を一生懸命聴く先生であってください。」
それから歳月が過ぎ、厳しい言葉はすっかり忘れてしまいましたが、あの教官の言葉だけは私から消えることはありませんでした。
言葉ひとつが失意の人を救うこともあり、生き方を導くこともあります。
人の心に残る言葉とは、そんな温かさと強さを持つものだと知ったのです。
ところで、イエスは、2000年を経ても私たちの心に響く言葉を残してくださいました。たとえば「子よ、あなたの罪は赦された」という一言。(マルコ2・5)
神の愛ある言葉は、いつもいつまでも、私たちを救い導きます。