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新しいいのち

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

私は今、私達の罪を肩代わりして十字架に釘付けされたイエスと、その足元で我が子の言語に絶する苦しみを共にされた、聖母マリアの苦しみを扱った曲に、取り組んでいます。

そしてまた、マーラーの大作、交響曲第二番「復活」にも並行して取り組んでいて、丁度、主の受難と3日目の、私達の復活の初穂としての、主のご復活にも携われる訳です。

それに、皆様の内のどなたかにとって(その末席に私達夫婦も控えておりますが)「復活」など遠い話だなどと言ってはいられなくなってきていますよね。

たとえ、慰めて下さるつもりで「いやー、まだまだ」などと言われても、そうそう遠くない将来、私達は必ず身罷るでしょう。

ところで、私は以前、非常に不思議に思っていたことがありました。主の復活後、エマオに行く弟子達に主が現れた時、弟子達は、主に出会ったとは全く気付かなかったという事です。

それから、主の生前、主が愛しておられたラザロが死んで数日後、姉妹たちが悲しんだのを見て主は、「ラザロ!出て来なさい」と大声で言われると、布で巻かれたままのラザロが生き返って出てきたこと。また、主が十字架上で息を引き取られた時、多くの墓からすでに亡くなった人々が生き返って出てきた事などです。

沢山の生き返った人たちの「その後」が、どこにも書いてないのが、どうしてなのか、どうなったのか不思議なのです。

その後、神学の勉強の中で、復活された主は、そのまま私達に見えるのではなく、主が「ご自分を示される」人に見えるのだという事が解りました。

すると、ラザロや弟子達も生き返ったというか、新しい命を帯びて人々に示された訳で、その後は、どのようにしてか私達には解りませんけれど、主の身許へと行けたことでしょう。