主イエスは、この世の人生の終わり、十字架上の死を覚悟された時、最愛の弟子たちと共に最後の食事をし、一人ひとりの足を洗い、御自分の最高の愛を示されました。その弟子たちは、私たち一人ひとりでもあります。主は、日々、私たちと共に食卓を囲み、心を通わせ、私たちの前に跪いて、それぞれの人生の土壌で疲れた足をご自分の手で触れ、丁寧に洗って下さる方です。
主が私たちと共に食べ、私たちの足を洗って下さるということには深い意味が込められています。私たち一人ひとりの人生は、どんなにささやかに見えても、神様が共に歩んで下さっているプロセスだということです。主は、それぞれの道のりにあったすべての歩みを理解し、途上で倒れたり、ぬかるみにはまって動けなかったりしても、その人生の中に共におられ、私たちの思いに聴き入り、疲れと痛みに触れて共感し、傷を癒し、洗い清め、そして、もう一度立ち上がらせて、それぞれの人生という土壌に必ず立っておられるということを、私は感じています。
どんなに険しく、厳しく、辛い道であっても、私たちは一人ではなく、共にいて下さる神様がおられ、生かされているという信仰こそが「新しいいのち」なのだと、私は思います。