「私たちは修行をしていて、こんなことを考えたら仏罰が当たる、と思ったりするのですが、キリスト教のみなさんはどうなのですか」
片柳神父様の答えを要約しましょう。
「神様は親のような存在です。いつも見ていて、私たちが間違いを犯せば悲しみます。だから、キリスト教には神様を悲しませることはしないというぜったいの基準があるんです」
この一言で、キリスト教の神様の立ち位置がよく伝わったのではないかと思いました。
悲しい例外はありますが、普通イメージされる親は、いつも子供のことを気遣います。離れていても心は子供と一緒です。子供の苦しみを共有してともに泣きます。子供の喜びもともに感じ、本人よりも喜んでくれたりします。神様はそういう存在のような気がします。
遠藤周作の「沈黙」という作品にもあるように、神様はときとして姿を隠しておられるかのように見えます。人間世界の悲惨な事件に遭遇し、神様は何をしているのだろうと思うこともあります。
それでも、神様が私たちを捨てて離れてしまったわけではない、と感じることは少なからずあります。
片柳神父様の「見ていて悲しむ」という言葉は、この感覚を表現しているように思いました。
こちらが見失ったときこそ、神様は共におられるのかもしれません。