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共にいる神

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

昨今話題のテレビ番組に、「ぶっちゃけ寺」というバラエティ番組があります。仏教の僧侶たちの本音トークを軸に、名所のお寺を訪ねたり、他宗教と交流したりと興味深い内容です。

その番組に「心のともしび」でもおなじみの片柳弘史神父様が出演されました。興味深かったのは、ある僧侶の方の質問に答えられた「神様の定義」ともいえるコメントでした。その質問はだいたいこんな感じでした。

「私たちは修行をしていて、こんなことを考えたら仏罰が当たる、と思ったりするのですが、キリスト教のみなさんはどうなのですか」

片柳神父様の答えを要約しましょう。

「神様は親のような存在です。いつも見ていて、私たちが間違いを犯せば悲しみます。だから、キリスト教には神様を悲しませることはしないというぜったいの基準があるんです」

この一言で、キリスト教の神様の立ち位置がよく伝わったのではないかと思いました。

悲しい例外はありますが、普通イメージされる親は、いつも子供のことを気遣います。離れていても心は子供と一緒です。子供の苦しみを共有してともに泣きます。子供の喜びもともに感じ、本人よりも喜んでくれたりします。神様はそういう存在のような気がします。

遠藤周作の「沈黙」という作品にもあるように、神様はときとして姿を隠しておられるかのように見えます。人間世界の悲惨な事件に遭遇し、神様は何をしているのだろうと思うこともあります。

それでも、神様が私たちを捨てて離れてしまったわけではない、と感じることは少なからずあります。

片柳神父様の「見ていて悲しむ」という言葉は、この感覚を表現しているように思いました。

こちらが見失ったときこそ、神様は共におられるのかもしれません。