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古い自分を捨てる

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

今朝、私は長年着ていたために、穴だらけになったセーターを、泣く泣く捨てました。

セーターごときでもそうなのですから、それが自分を脱ぎ捨てるともなれば、そうそう簡単ではないどころか、ものすごい痛みも伴うに違いありません。脱いだ自分というものを、着衣のように畳んでしまっておけるなら、出してすぐ着られるので、古い自分を脱ぐという事も、大した決意など無くても出来るかもしれませんが。

と、こんな風に思ってみましたが、私が実際に古い付き合いである自分を、神様の呼びかけに応えて、未練を残すことなく捨ててしまえるかなーと、ちょっとばかり心配でしてねー。

私は貧乏症なのか、自分を捨てるのは何といっても勿体なくて、きっと小出しにチョビチョビ捨てるという調子になるのではないかと我ながら情けない気がしています。

ところで聖書の中で、私達の主、イエス・キリストは、新しいぶどう酒は新しい袋に入れないと、古い袋だと裂けてしまうとの例え話をされています。(参:マタイ9・17)

私はぶどう酒を皮袋に入れるという事もよく分かりませんが、何かの映画で皮袋を肩に引っ掛けて、右手で飲み口を口に持ってきて飲んでいるシーンを見たことがあります。

この、皮袋のたとえは、もしかしてイエス様の時代には、誰もがワインを作っていたり、目にしたりで、ピンとくる状況だったのかもしれません。

そして、このたとえは、主と共に「すでに到来した神の国の生き方をまとう」という信仰告白なので、これを生きようとすると、自然に「古い自分は捨てられてしまう」事になるでしょうね。

いつの間にか捨ててしまっている方が、決意して自分を捨てるより、私には楽チンに思えて、好ましいのですが・・。調子良すぎでしょうかねー。