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まわり道をしても・・・

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

中学生時代、恋しい同級生の家を見たいばかりに、わざわざ、まわり道をしてでも学校にむかいましたが、以来60年を生き抜くと、今は美しい薔薇が咲いている「知らない方のお庭」が見たくて回り道をして帰宅します。

このように私は随分とまわり道をしながら生きてきたようです。 行きついた現在は、とても幸せな場所と生活のようです。

台湾高雄の海軍基地で誕生し、第二次世界大戦が終わる頃は神奈川県の葉山町の御用邸辺りに住んでいました。海岸で遊んでいるとアメリカの戦闘機がしばしば飛来してきて私達小学生にも機関銃を打ちこんでは飛び去る時代でした。その後、新潟県の山奥に疎開しましたが、色々あって高校生時代にカトリックの洗礼を受けます。 今、静かに、長い人生での明暗の想い出を考えているのですが、ふと気付いた事があります。現実の生活では次から次へと厳しい出来ごとが生まれます。高校時代の母親の死、社会に入り、世界各地に色々の用事で出かけるのですが、飛行機事故を始め、想像を超えた困難に遭遇します。しかし、洗礼を受けた後の困難を乗り越える時の解釈が激変しているのに気付きました。同じ困難に遭遇する時もその困難の解釈が激変していたのです。

洗礼を受ける前の解釈は、ひたすらに切なく、辛い、辛いと叫んでいましたが、洗礼を受けた後の解釈は、この辛さは後に幸福をつかむ為の神様の愛の試練だ、という解釈でした。宇宙万物の創造主、全知全能の神様、愛そのものである神様、十字架の贖罪と復活の神様、このような神様のイメージが、遠回りして生きてきた私の心に住み着いていたのです。この辿り着いたイメージが今の私を非常に安心させて生かしているようです。