しばらくは、説教原稿作りのゆとりもありましたし、新米神父として真面目に準備もしていたのですが、ある時、どうしても時間が作れなくなり、説教の準備がほとんどできずに礼拝を司式することになってしまいました。
何を話したのか、すっかり忘れてしまいましたが、とにかく、たどたどしくお話して、説教壇を去ったのを覚えています。
「あぁ、もっとしっかり準備しておけばよかった」と落ち込んでいる私に、信者さんたちは「神父さん、今日の説教はよかったですよ。」と口々に仰って教会を後にされていました。新米神父の落ち込みに慰めのお言葉をかけてくださったのでしょう。
ところが、これに味をしめた私は、それから説教原稿を作るのをやめてしまいました。原稿を読むよりも、とつとつと聖書の言葉について語る方が、信者さんからの評判がよかったからです。
以来、同じような説教スタイルを続けていますが、聞いてくださる相手が変わると、同じ聖書の個所でも、お話する内容は若干、変わります。不思議なことに、聖書が語りかけてくる個所が新鮮味を帯びて変わっていくこともあります。
つまり、聖書とは生涯、学び続けられる命の言葉であり、聖書と向き合っていく人生は学びなのだ、と私は思います。