3年近く寝食を共にしたにもかかわらず、弟子たちは、捕えられ十字架につけられたキリストを見捨てました。その弟子たちに現れたキリストの口からは、一言の咎めの言葉もなく、むしろ、自責の念に打ちひしがれていたに違いない弟子たちが、最も必要としていた言葉、「あなたたちに、平安があるように」の一言だったのです。(ヨハネ20・19)
あれだけ偉そうに大見栄を切りながら、いざとなると、3度もキリストを裏切ったペトロへの呼びかけも「赦し」でした。「人一倍私を愛するか」と3度問いかけ、「はい、もちろん」という3度の告白によって3度の裏切りを赦し、弟子たちの前で、ペトロに再び教会の頭として司牧の権威を約束されました。(参:ヨハネ21・15〜17)このことは、カトリック教会が名実共に罪人に開かれた教会であること、人間的弱さを抱えながら、主を愛し続け、主の最も小さい兄弟姉妹を愛し続ける教会であることを如実に示すものでした。
キリストは、復活体に十字架上での傷を残しておられたばかりか、それをご自分のアイデンティティとされました。私たちも、この世で傷ついてよいのです。その傷の一つひとつが、私たちが初穂であるキリストに続いて復活する時のアイデンティティとなることを、ご自分の復活によって示して下さったのですから。