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私にとっての復活とは

シスター 菊地 多嘉子

今日の心の糧イメージ

あの夜、私がただ一人で臨終のシスターに付き添っていたあの夜のことを、私は生涯忘れることはできないでしょう。目を閉じてひと息、ひと息をやっと繰り返している苦しみを見て、私は思わず耳元で語りかけました。「シスター、もうすぐ、もうすぐ、復活されたキリスト様が迎えに来てくださいますよ。」その瞬間、シスターは目を開け、私をみつめると深く頷き、さも嬉しげにほほえんで最期の息を引き取ったのです。長い年月の間、難病で苦しみながら一言も苦情を口にしなかったシスターの「復活信仰」を目の当たりにした感動は、今も消えることはありません。

「私は生きるので、あなたたちも生きる。」(ヨハネ14・19)イエスの言葉に呼応するように、使徒聖パウロは叫びます。「死者のうちから復活させられたキリストはもはや死ぬことなく、死はもはや彼を支配しない。」(ローマ6・9)「イエスが復活しなかったなら、私の信仰はむなしい」と。(Ⅰコリント15・14)

私の復活信仰は洗礼を受けてから、事ある毎に、わけても親しい方々の訃報に接するたびに深められてきたように思われます。だれ一人として免れえない死。もし、死が各自の人生に終止符を打つのであれば、その人の存在はどんな意味があったのでしょう。・・・私たち一人ひとりを大切にみ心に留めておられる父である神様が望まれること、それをイエスは明言されました。「私の父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠のいのちがあり、私がその人を復活させることである。」(ヨハネ6・40)

イエスは愛の極みである受難と十字架の死をへて、復活の栄光に入られました。愛と愛が造ったものは永遠に存続することを証しされたのです。復活の信仰と希望は私の人生にとって、喜びのときも、悲しみのときも、夜道を照らす導きの星でした。今も、そして、これからも。