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私にとっての復活とは

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

身近な人の死に初めて接したのは、小学校四年生の時。新しく友だちになった同級生の男の子だった。毎日毎日、遊ぼう、遊ぼうと少々強引に、元気に誘ってくれた。ところが、家庭の事情があって悩んでいたお父さんが、子どもたちを殺してしまい、自らも死を選んでしまうという悲しい出来事に巻き込まれてしまった。毎日毎日元気に私を誘ってくれていた友だちが突然、いなくなったことで、大きな喪失感があったことを覚えている。

高校生の時にはおばさんが、大学生の時にはおじいちゃんが天国へと旅立っていった。しかし、この時には、悲しみはあっても、いつもの場所におばさんやおじいちゃんがいて、呼べばすぐにでも姿を現してくれるかのような不思議な感覚があった。

ところで、今から20年ほど前、あるドキュメンタリー番組を見た。それは、愛する人を看取った女性がその出来事を振り返るという内容だった。

愛する人が病気に蝕まれ、闘病生活の間にお互いの思いを交わし合い、愛する人の息をたくさんの風船に詰めて部屋いっぱいに残し、ついにはその最期まで看取った女性の話だった。彼女は、大きな喪失感を感じると同時に、ある日、ふっと愛する人の存在を感じ、後ろから抱きかかえられたような体験をしたと証言した。私にはこのような強烈な体験はないが、何となく納得できる証言だった。

復活とは、とても不思議なことではあるが、この世の人生を終えた人たちが、今も私と共に生きている、という感覚や確信ではないか、と私は思う。

イエスの言葉が私の心にも響く。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11・25~26)