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私にとっての復活とは

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

昨年のことになるが、ミサにあずかっていた時のこと。壁際の席に、高齢の母娘連れがおられた。御母様のために、娘さんが手話で祈りの言葉を通訳される。御母様からはよく見えるよう、他の人々には邪魔にならぬよう、壁と柱に隠れるように立ちながらの、心優しい手話だった。

手話で「遠い」と表現する時は、まず左手の指先に右手を寄せ、そこから右手を大きく離して距離を示し、「遠い」と言うらしい。信仰宣言の「体の復活、永遠の命を信じます」を唱える時、娘さんは「遠い」という動作をされた。そして、右手をそのまま更に高く、鮮やかに頭上に伸ばした。それは「永遠」という言葉であるらしかった。「永遠」は遥かな高みにあって、それでも、人の手のすぐ先、届きそうなものに見えた。

復活を信じるということは、ただ死者が甦ることに留まらず、永遠と永遠の命を信じることなのだと、その手は言っているようだった。

大切な人々を亡くした時、人はなかなかその死を受け入れることが出来ない。悲しみや喪失感、あるいは自責の念に打ちひしがれる。だが、苦しみの長い時間の果てに、私たちは気がつく。死者はいなくなった訳ではないことに。苦しみをくぐり抜け、浄化されて研ぎ澄まされた心だけが聴き取れる声があるのだ。それは生者と共にいる死者の励ましの声のようでもあり、永遠というものの気配のようでもある。

日常の雑事に埋没してしまう私のような者に訪れてくれるのは、ささやかな出来事ばかりだ。私にとっての復活と永遠は、たった一人のために立ち続けて、祈りの言葉を伝える手が指すものであり、またその手に与えられ、私たち皆を光のうちに包むものなのだと思っている。