ところが、こうも言われました。
「私は地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂だ。一家に五人いれば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれる。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立して分かれる」(ルカ12・51〜53)。
何とも過激な言葉です。しかしよく考えてみると、これは見せかけの平和や一致を厳しく糾弾された言葉だと気付きました。うわべは平和な家庭も、一皮めくれば一人ひとりはエゴの塊、感性や価値観が異なります。しかし互いに傷つくことを恐れて殻をかぶり、心はバラバラという関係が珍しくありません。特に「神を信じるか、否か」という問いかけは、大きな対立をもたらします。
そんなとき、私は思うのです。
神様を信じようが信じまいが、神様に愛されていない人は一人もいないのだから、どんなに価値観が違う人でも、神様に愛されているその人を、私が同じ人間の分際で嫌い、人格を否定する権利はないのだと。むしろ対立した時にこそ、人間家族の一員として一歩踏み込んで自分とは異なる価値観を理解しようと謙虚な心でコミュニケーションを計り、その違いを多様な豊かさと受け止めて認め合い尊重し合うことを学ばねばならないのだと。
「愛による一致」は人類究極の目標ではないでしょうか。