この経験にぴたりと合う新約聖書の箇所がある。「エフェソの信徒への手紙」二章にある、「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」という言葉だ。(14節)
「敵意」とは、二人の友情を阻むもやもやとした邪魔者のことだそれは、神を愛するか、無視するかという二つの相反する態度ではないかと思う。私は自分なりに神を愛そうとしていた。彼女はまだ神がいるのか、いないのかわからないと言っていた。二人の間には私たちが思う以上の壁があったのだ。しかし、大きなきっかけが起きて「神様はイエス=キリストだったんだね!」と友人がはっきりと言った日、二人は兄弟のように一致した。
その後もケンカをしたりしたが、友情はいつも息を吹き返した。
人と人とが一致するのは人間の力だけでは難しいのではないかと思う。人をはるかに超える神を信じ、自分が間違いの多い小さな存在だという自覚がいる。そう思えると自分を絶対視しなくなるから祈りが生まれる。近づきあい、一致していく。
私たちは今、どんな小さなことでも困難が生じると互いに祈りあって解決している。