愛の実践

新井 紀子

今日の心の糧イメージ

 母の自慢は、4人の娘を1人も亡くすことなく成人させたことでした。今を生きる私たちにとって当たり前のように思われるかもしれません。しかし、母は長女と次女を第二次世界大戦のさ中、産みました。当時、暮らしていた東京の家が爆撃で燃やされてしまうと、父と母は家財道具をリヤカーに積み、東京郊外へと疎開していきました。その後、父は出征し、2人の幼子と母が残されました。その頃まだ幼かった姉たちは、戦後生まれの私に言ったものです。

 「警報が鳴ると母さんと戸棚に隠れるの。怖かったのよ。」

 ようやく、終戦を迎えました。そして生まれたのが私と妹です。母は体の弱かった私のために、山羊のミルクを毎日、遠くまでもらいに行きました。私がはしかにかかった時には、母の血液から血清を取り輸血したそうです。妹がひどい肺炎になると、何日も寝ないで付き添いました。戦後の食糧難と混乱の中、母の姪や甥たちが何人か命を落としました。

 姉妹が結婚し次々と子供が産まれるようになると、その度に母は私たちを呼び寄せ出産を手伝ってくれました。その数、11人。

 母にとっての孫たちも全員成人することができました。

 母は今から20年前、私たち4人姉妹に看取られて、自宅で亡くなりました。

 嬉しいことに、私たち4人姉妹は、全員還暦を迎え、姉2人は古希の祝いも迎えることができました。姉の古希のお祝いで集まった私たちは、母の思い出を話します。

 「お母さんは優しかったわ。おしゃれだったし。歌が好きだったわね」。

 母の思い出を話すたびに、私たち姉妹は母の愛に包まれていたことを思い出し心が温かくなるのです。

 母が私たちに注いでくれた愛情は、私たちを通して子供たちへ、そして孫たちへと伝達されています。お母さん、ありがとう。

愛の実践

シスター 渡辺 和子

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 「もしも、街頭での署名をする度に、千円ずつご寄付をいただきます、ということになったら、今のように人々は気安く署名に応じるだろうか」 ある人の呟きを聞いて、我が身を振り返ったことがあります。つまり、愛には、痛む愛と、痛まない愛があるということを、あらためて思い知ったのです。

 近頃は、大学でも学生たちがボランティアをしたことに対して、単位を出しています。私には、ボランティアとか奉仕は、無償の愛の現れという思いがありますが、今は、必ずしも、そうでない事実もあるようです。

 「東日本に行ってお手伝いしてきました。」と報告しにくる学生たちに、「ありがとう。ご苦労でした」とねぎらいながら、そして決して単位のために行ったのではないと信じながら、心の片隅に小さい疑問が残ります。

 この人たちは、自分の家で、家事の手伝いをしているのだろうか、という疑問です。

 かつて、マザーテレサのお話に感動した学生たちが、奉仕に行きたいと申し出た時、マザーは言われました。「ありがとう。わざわざインドまで来なくてもいい。自分の周辺のカルカッタで喜んで働く人でいてください」

 愛を実践するということは、毎日の生活の中で、疲れ切った父母の手伝いをし、優しい心づかいをするということなのです。生き甲斐を失ったかに見える老人、祖父母に、生き甲斐を持たせることなのです。

 今や、何と多くの愛に飢え渇いている子どもたちがいることでしょう。心の病を患っている人々も。

 「単位」も出ない、何の見返りもない、周辺のカルカッタでの優しさ、手助けこそは愛の実践ではないでしょうか。実際「愛は近きより」Charity begins at home なのですから。


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