
二度目の入院の前に、妻は「もうあなたが信じられなくなった」といって「離婚届」をおいて家を飛び出した。私は呆然として仕事も何も手が着かなくなってしまった。
今ふりかえると、あのときに私たちを救ってくれたことがあった。
そのひとつは結婚式の時に「順境の時も逆境の時も、病気の時も健康の時も生涯の忠誠を誓う」ととなえたあの宣言である。これは病気のひとつの症候であることに気づきだした私はここで別れることはこの誓いに反することであり、妻を見捨てることになる、それはできないと思った。
そして「愛とは決断である」というあのメッセージである。愛は好き嫌いの感情をこえた自分の意志の問題であり、ここでもう一度その決断を再確認しなければならないときだと確信した。
私は妻の弟の助けをえて、妻を連れ戻しにいった。妻はすぐに入院となった。
しかし、あれから妻の病状の進行は止まった。妄想も徐々に少なくなり、今は入院することなく20年を経ている。あの『決断』が私たちを救ってくれたと信じている。
(土屋至様の奥様は今年5月帰天されました。ご冥福をお祈りしております)

歩き始めて間もない幼い子どもと手をつなぐ機会があった。この世に来たばかりの汚れていない瞳。10本揃っているのが不思議なほどの華奢な指と爪。生きることの始まりは、こんな小さな柔らかさなのだ、と胸が一杯になった。
人類の生きる意味が「愛」という大きなものであっても、その入口は、無力な者同士が転ばないように守り、支え合うことなのだと思われる。聖母マリアの両手が抱いておられるのが、幼子イエスであることを思い出しながら、このささやかな入口から入って行きたい。私たちは小さな者だから、小さなことから愛を実践していくことがふさわしいのだ。
誰かの手を支えることが出来る時、私たちは暖かく心が満ちていくのを感じる。愛するという行為に、心が喜んでいるのかもしれない。そのうちに、自分も誰かに支えてもらっていることにも気づく。そんな喜びと感謝のうちにいる時こそ、私たちは本当に生きているのかもしれない。