
きっと、そういう時には、聖霊に祈ることによって、どうしたら良いか、道が示されるのだと思います。聖霊は人と人との絆を回復させるものだと信じるからです。どうしたら良いのか、聖霊の導きに任せるしかないと思いいたるまで、弱い私たちはもんもんとしてしまうのです。でも、きっと、すべてに時がある、というのですから、いつ、どうすれば良いのか、サインが与えられると信じます。
いつか、お年を召した、とても厳しい神父様が日曜日のミサのお説教でお話しされたことが忘れられません。
いくら夫が悪かったとしても、妻は恨みを抱いたままでは、絶対に天国に行かれません、と言われたのです。あのお説教を聞いてから20年ぐらいたちますが、あのときの衝撃は忘れられません。あのお話をなさってから、ほどなく、その方は主任司祭のまま亡くなられ、お別れの時、祭服をお召しのままお棺に横たわっておられました。神様の仕事を見事に成し遂げられたのだと思いました。

使徒パウロが「愛の賛歌」の中で歌っている愛、「忍耐強く、情け深く、自分の利益を求めず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」真実の愛を。(Ⅰコリント13・4〜7)
この愛は努力によってかちとるのではないことを、キリストご自身が教えてくださいました。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」と。(ヨハネ15・9)「愛を知ったのは、イエスが私たちのために命を捨ててくださったことによる」と使徒ヨハネは書いています。(Ⅰヨハネ3・16)
十字架をみつめてイエスの愛を知り、その愛に自分をゆだねてこそ、私たちはイエスの愛によって人を愛することができるようになるでしょう。そのためには自我から解放され、イエスに自分を譲り渡すことが求められます。これもまた、イエスご自身のわざであって、私はそれに、いわば協力することによって愛の実践に導かれることを心にとどめたいと思います。