愛の実践

末盛 千枝子

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 愛の実践という言葉は、実に大事なことだと思います。でも本当のところ、時にはとても難しいこともあるのだと思います。特に、自分が、友人の言動にひどく傷ついてしまっていて、しかも、その傷を与えた本人はそのことを意識していないのに、その人はその人で何か別なことで本当に困っているようなとき、それでも、その人に対して、手を差し伸べることを神様はお望みだろうと思うようなとき、本当に難しいと思います。手を差し伸べるのがとても難しいのです。神様がお望みだとはわかっているのですが、さっと手を差し伸べられない自分の弱さを痛感します。人を許せないということは、本当に辛いことです。

 きっと、そういう時には、聖霊に祈ることによって、どうしたら良いか、道が示されるのだと思います。聖霊は人と人との絆を回復させるものだと信じるからです。どうしたら良いのか、聖霊の導きに任せるしかないと思いいたるまで、弱い私たちはもんもんとしてしまうのです。でも、きっと、すべてに時がある、というのですから、いつ、どうすれば良いのか、サインが与えられると信じます。

 いつか、お年を召した、とても厳しい神父様が日曜日のミサのお説教でお話しされたことが忘れられません。

 いくら夫が悪かったとしても、妻は恨みを抱いたままでは、絶対に天国に行かれません、と言われたのです。あのお説教を聞いてから20年ぐらいたちますが、あのときの衝撃は忘れられません。あのお話をなさってから、ほどなく、その方は主任司祭のまま亡くなられ、お別れの時、祭服をお召しのままお棺に横たわっておられました。神様の仕事を見事に成し遂げられたのだと思いました。

愛の実践

シスター 菊地 多嘉子

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 「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」受難と十字架上の死を前にして、弟子たちに語られたキリストの言葉です。(ヨハネ15・13)

 自らの日常生活を省みながら、これが私にとって到底実行不可能な掟のように思われたとき、脳裏に浮かんだ出来事がありました。

 電車のホームから転落した見ず知らずの人を救うため、線路に飛び降りて自分の命を犠牲にした韓国の留学生のこと。ごく最近では、電車の線路にうずくまった老人を助け出して、命をおとした女性のこと。・・・危険にさらされた人を救うため、とっさに自分の命を捧げたお二人は、日頃から人との関わりの中で愛を実践しておられたに違いありません。

 使徒パウロが「愛の賛歌」の中で歌っている愛、「忍耐強く、情け深く、自分の利益を求めず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」真実の愛を。(Ⅰコリント13・4〜7)

 この愛は努力によってかちとるのではないことを、キリストご自身が教えてくださいました。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」と。(ヨハネ15・9)「愛を知ったのは、イエスが私たちのために命を捨ててくださったことによる」と使徒ヨハネは書いています。(Ⅰヨハネ3・16)

 十字架をみつめてイエスの愛を知り、その愛に自分をゆだねてこそ、私たちはイエスの愛によって人を愛することができるようになるでしょう。そのためには自我から解放され、イエスに自分を譲り渡すことが求められます。これもまた、イエスご自身のわざであって、私はそれに、いわば協力することによって愛の実践に導かれることを心にとどめたいと思います。


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