
ある聖女の伝記を読んでいましたら、彼女の修道院に「どうしても好きになれず、顔を見るのもつらくなるシスターがいた」とあり、あら、こんなすばらしい聖人であっても嫌いでたまらないひとがいたのね、とちょっと安心してしまいました。
そして彼女はどう努力しても「嫌い」を好きに変えられません。考えたのは、その大嫌いなシスターと顔を合わせるときは、とっておきの笑顔で向き合うということでした。聖女もじぶんの弱さに苦しんでいたのです。それにしてもすごい策略!あるときその姉妹は嬉しそうに「わたしのどこがそんなにあなたの気に入ったのでしょう」といったそうです。
そうか、それでいいのね、愛の表現になるのだから。なんだかダマしているような気がしないでもないけれど・・・でもこれはよきダマしかたなのだと思います。
愛されているという幸福な思いをはこぶのですから。
愛の小さな道だと納得。
たいせつなのは、弱い人間である私たちは、すべてのひとを愛するのは難しくとも、「愛したい!」という思いをもち続けることなのでしょう。

私たちの日常は忙しく、緊張に満ちたものです。職場で批判や妨害を受けることもあるでしょう。厳しい人生を生き抜く上で、祈りは、まるで海に潜る時の酸素ボンベのようなものなのです。祈りとは、すべてを見ておられる神に信頼し、自分の気持ちをありのままに話すこと、それから神の応答を待つことです。傷んだ心を放置せず、神様に力づけられてから人とかかわると笑顔になれます。
神様は、「恐れるな。私はあなたを助ける」(イザヤ書41・13)とか「わたしの目にあなたは価高く尊い」(同43・4)とか「悪人に心を燃やすな」(箴言24・1)などの聖書の言葉で私たちを励ましてくださいます。酸素ボンベを持たずに海に潜ると窒息してしまいますが、祈る人は絶えず酸素を受けているので、決してへこたれません。そればかりか、他の人の人生も照らすのです。