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子供に手本を

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 私の記憶に残っている父は、いつも他の人の益になることを望んでいた。だから、何気ない話をする時も話題に気を配っていた。

 例えば、私が希望した大学に受かった時、父はうれしくてたまらなかったらしいが、同じ年頃の子供をもつ人には決してそれを話さなかった。苦しい思いをしているかもしれないからだった。しかし、一緒に喜べる状況の人には単純に話す。相手の様子をつかんでいたのだと思う。

 私はよく父と散歩した。道にとがった針金のようなものが落ちていると父は持ち帰り、針先を丁寧に紙でくるんでから捨てる。どこかの子どもが転んでケガをするといけないからと言う。

 他にこんなことも思い出す。ある日、母が庭に置くイスとテーブルを買った。とても重いものだった。店の人がやっとの思いで運んでいると、父も一緒に運んでいる。もう高齢だったので私は心配になり、「お父さん、あの人は仕事なんだからいいのよ。腰を痛めるからやめて」と言った。すると珍しく怒って「目の前で重いものを持っている人がいるのに黙って見ているのか。お前も運びなさい」と言う。もちろん私は手伝わなかったが、少し驚いた。店員が仕事で物を運んでいる、という見方をしていないことに。父には「重い物を持っている人」とだけ映っている。代金を払ったからいいのだ、という考えなどない。

 こういったことは私の胸に深く深く刻まれている。聖書には「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」(イザヤ書42・3)という非常にデリケートな心遣いをする神の僕の姿がある。

 父は、このような神さまのあわれみを知っている人だった。父は「手本になろう」としたことはなかっただろう。だが、子供の手本になっていた。