
そんな折、カトリックの信仰と出会い、愛の孤独感について勉強していく内に「愛の実践」という概念と出会いました。が、私には不可能だなあ、とも思いました。そんな想いで人生体験を積む内に愛し愛される人間の美しさに感動していきます。特に心理療法で出会った大勢の方々は、悩みの核心が経済や政治、宗教、芸術、日常生活のこまごました領域の問題にしても愛の孤独感が必ず背景に潜在しているのを知ります。その人々も、それぞれの生活で暖かい愛に触れて元気になっていきました。
愛の実践といいますと何か少々大げさで気恥ずかしくなりますが、人生の折々で私が元気になり、幸福感を感じましたのは、私の周囲の方々が私に愛の実践をしてくださったからです。恩着せがましくなく、かつ、さらりとした優しさを思い出すたびに、それを与えて下さった人々に改めて深い感動を感じます。私は多分、生涯、愛の実践という言葉に値する行為は出来ないとは思いますが、今までの恩人達を思いつつ、周囲の友人、家族、友達、道ですれ違う人々に対しても、心からの微笑みと恩返しをして生きていきたいと思います。

「それでこそ母親たいね。自分の分を我子に与える。それが愛情っちいうもんたいね」と父母はいっていた。
ここで突然、猫の話になって申し訳ないが、ノラ猫の我子に対する愛情は涙なしには見られない。食べ物をやっても、母猫は食べないで、まず子どもに食べさせ、残った分を自分が食べるのである。
また父母の話に戻るが、父母は戦中戦後の食糧難の時代に、食べ物を隠すことなく、誰彼に惜し気なくふるまった。
戦時中、我家の裏に疎開していたおばちゃんは現在93歳であるが、年に数回、私たちきょうだいに梨やみかんなどの宅配便が届く。それは私の父母が戦時中、赤の他人のおばちゃん一家に何ひとつ隠し事をせず、食べ物を分けたことに対する感謝だというのである。
ひるがえって自分のことを考える。もし、将来、食糧難になった時、自分の家にある食糧を惜し気もなく分ける事ができるだろうかと。血縁ならともかく、赤の他人に対し、そう出来るだろうかと。
極限時に自分の家にある食べ物を分け与えることが出来て、初めてカトリック信者を名のれると思うので、今からそういうことが出来るように神さまにお祈りしたい。愛の実践のお恵みをいただきたいと・・・。