愛の実践

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 人類の誕生から今日まで人々は地球のあちこちで色々の事をして生きてきました。人間の歴史や神話、民話を調べていくと、人はどんな文化圏で生きていても、そこに垣間見えてくるものは「愛の孤独感」です。人にはプライドがありますので「自分は愛の孤独感で苦しんでいます」とは言えません。しかし、その孤独感に苦しんでいる人が、周囲の人の情愛の深い眼差しに触れますと、明るく元気になっていきます。自分自身の生育史を顧みましても、末っ子という原因もありますが、とにかく私は寂しがり屋でした。

 そんな折、カトリックの信仰と出会い、愛の孤独感について勉強していく内に「愛の実践」という概念と出会いました。が、私には不可能だなあ、とも思いました。そんな想いで人生体験を積む内に愛し愛される人間の美しさに感動していきます。特に心理療法で出会った大勢の方々は、悩みの核心が経済や政治、宗教、芸術、日常生活のこまごました領域の問題にしても愛の孤独感が必ず背景に潜在しているのを知ります。その人々も、それぞれの生活で暖かい愛に触れて元気になっていきました。

 愛の実践といいますと何か少々大げさで気恥ずかしくなりますが、人生の折々で私が元気になり、幸福感を感じましたのは、私の周囲の方々が私に愛の実践をしてくださったからです。恩着せがましくなく、かつ、さらりとした優しさを思い出すたびに、それを与えて下さった人々に改めて深い感動を感じます。私は多分、生涯、愛の実践という言葉に値する行為は出来ないとは思いますが、今までの恩人達を思いつつ、周囲の友人、家族、友達、道ですれ違う人々に対しても、心からの微笑みと恩返しをして生きていきたいと思います。

愛の実践

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 極限時に於ける愛の実践の代表者はイエズスさまであるし、あとコルベ神父さまが続く。

 他人のために命を投げ出すなど、凡人の私にはとうてい出来そうにない。

 私が最近よく思うのが、戦中・戦後の食糧難の時代のことである。

 極限の空腹状態のときの人間の姿に思いをはせるのである。戦中戦後の時代、母親が食べるのを我慢し、子どもには先に食べたと嘘をいって、子どもに自分の分を食べさせたという話をよくきかされた。

 「それでこそ母親たいね。自分の分を我子に与える。それが愛情っちいうもんたいね」と父母はいっていた。

 ここで突然、猫の話になって申し訳ないが、ノラ猫の我子に対する愛情は涙なしには見られない。食べ物をやっても、母猫は食べないで、まず子どもに食べさせ、残った分を自分が食べるのである。

 また父母の話に戻るが、父母は戦中戦後の食糧難の時代に、食べ物を隠すことなく、誰彼に惜し気なくふるまった。

 戦時中、我家の裏に疎開していたおばちゃんは現在93歳であるが、年に数回、私たちきょうだいに梨やみかんなどの宅配便が届く。それは私の父母が戦時中、赤の他人のおばちゃん一家に何ひとつ隠し事をせず、食べ物を分けたことに対する感謝だというのである。

 ひるがえって自分のことを考える。もし、将来、食糧難になった時、自分の家にある食糧を惜し気もなく分ける事ができるだろうかと。血縁ならともかく、赤の他人に対し、そう出来るだろうかと。

 極限時に自分の家にある食べ物を分け与えることが出来て、初めてカトリック信者を名のれると思うので、今からそういうことが出来るように神さまにお祈りしたい。愛の実践のお恵みをいただきたいと・・・。


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