
一方、経験不足や、想像力が足りないために、せっかくの誘導サービスを台無しにしてしまう方も少なくありません。
「何かパンに合うお惣菜はありますか?」「お惣菜って何ですか?」
「コロッケのようなものとか」「コロッケはありません」。「フライドチキンのようなものは?」「チキンはおいてありません」。
「ではお惣菜コーナーには何がおいてありますか」「どんなものがほしいんですか」。
こちらは買う気満々。惣菜コーナーには確実に美味しそうなものが並んでいるはず、なのに、こんな会話が延々と続き、買い物がまったく進まない。私がどんなに質問にヒントを交えても、店員さんの側に伝わらないのです。相手の立場になるとか、相手の状況を想像するといった愛の気持ちがなければ、こんな簡単な会話も成り立たないのです。
かと思うと、私を友達のように思いやり、ご自分の視点で上手に品物を説明してくださる方もいます。彼らからは、暖かく、愛に満ちた語調が感じられます。
こんな経験から、私はいつも、愛の実践は最も小さな言葉や行動から出発するのだと思うのです。

それからは、どうしたら良い子になれるかということが、終生の課題となりました。そこでまず実行したのは、一生懸命神に祈ることでした。次にできるだけ欠点を直し、長所を伸ばそうと努めました。これは成功しませんでしたが、大きく道を踏み外すことはありませんでした。
それから神のこと、天国のことなど含め、宗教、特に魂に関する霊性の本を愛読しました。こうして18歳のとき、信州の教会で洗礼を受けました。
そのときから、愛の実践つまり愛徳こそが、天国に入る唯一の道だと知りました。愛の具体的な実践方法は、十人十色、千差万別ですが、相手である他者のほんとうの利益になると確信することを、自分の分に応じて与えることではないでしょうか。私の場合は、神父であり、修道者であり、教師ですから、他者をあるがままに受容した上で、その人が精神的にも霊的にも成長するようなことを与えてきました。たとえば、真理を教え、愛と善に導き、助け、励まし、褒めることなどです。決して物質的な利益になるようなことは与えませんでした。そのようなことは神がそれぞれの時に応じて与えてくださると思っているからです。私は、それを各人が引き出せるよう助けているにすぎません。