愛の実践

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 ちょっとしたことでも腹を立てて暴言を吐いたり、理由もなく周りの人に当たり散らしたりする人は、どこの世界にもいるようだ。そう言うわたし自身も、そんな人になっていることがときどきある。みんなと仲よく暮らしていけばそれが一番だと分かっているはずなのに、なぜそんなことをしてしまうのだろう。

 それは、心の中にある傷のせいではないだろうか。体に傷を負った人が、痛みに耐えかねて叫び声をあげるように、心に傷を負った人も、痛みに耐えかねて叫び声をあげる。どうしていいか分からないまま、暴言を吐いたり、周りの人に当たり散らしたりするのだ。ちょっとしたきっかけで叫んでしまうのは、ふだんじっとその痛みに耐えているからだろう。

 そう思えば、暴言を吐いたり、当たり散らしたりする人に違った態度で接することができるようになるだろう。「この人はいま、心に耐えがたいほどの痛みを抱えているのだ。怪我人が大声で叫ぶのと同じように、痛みに耐えかねて私に助けを求めているのだ」と思えば、相手を責めようとは思わなくなる。むしろ、相手へのいたわりが生まれ、あたたかな言葉をかけることができるはずだ。自分自身が暴言を吐いたり、当たり散らしたりしてしまうときには、「こんなことをしても仕方がない」と思い、自分自身をいたわって「神様、どうかわたしの心の傷を癒してください」と祈ることができるだろう。

 暴言を吐いたり、当たり散らしたりする人が、たまにしか会わない人ならば、我慢するだけでもなんとかなるだろう。だが、家族や友だち、あるいは自分自身ならば、さらに一歩踏み込んで、心の痛みを思いやり、心の痛みに寄り添う覚悟が求められる。どんな場合にも、人間関係の問題を解決してくれるのは愛なのだ。

愛の実践

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 「うちでは」と、当時3、4才だった息子が、預かってもらっていた保母さんのお宅で、夕食を食べながら言ったのだそうです。「うちでは、お父さんがいない日には、お肉はたべられないの」。

 これを聞いた保母さんのご主人は、「ワハハハ、面白いーっ!」と大笑いして、「これからはハル君が来る日は会社から早く帰って来る」とおっしゃったそうでした。

 あの頃は、妻も音大のピアノ科で教えていたので、どうしても息子を預かってもらう必要があったのです。

 それやこれやで、息子も人を思いやる事の出来る人間に育ってきたようです。本当にありがたい事です。

 そこには、私達には見えない、神様の深く張り巡らされた愛の糸が息子も含めて、私達夫婦をも導いてくれたのでしょう。神の愛、またその想いは、何十年という歳月を経て、私達をもどうにかその理解への一端に近づけてくれるのでしょう。

 ですが、場合によっては、明日をも知れないのが人生でしょう。夫婦の間柄にしても、最後まで順風万帆で行けるかどうか。すぐむこうに時化や大嵐が常にひかえている訳で。

 ここで決定的に別れてしまう夫婦関係もあるでしょうが、二人が自我に籠らず、何とか互いのために心を割くのを実践出来れば(勿論苦しいでしょうが)、二人の関係にこれまでなかったかもしれない新しい地平線を開くのも、あながち夢ではないでしょう。

 互いに愛し合うこと、これは神様のお言いつけです。まずは、二人が愛し合わなくて、どうしてもっと大勢の人を愛する事など出来るでしょう。

 特に神様は私に、神がご自分の教会を愛されたように、妻を愛しなさいとまでおっしゃるのです。


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