
そう思えば、暴言を吐いたり、当たり散らしたりする人に違った態度で接することができるようになるだろう。「この人はいま、心に耐えがたいほどの痛みを抱えているのだ。怪我人が大声で叫ぶのと同じように、痛みに耐えかねて私に助けを求めているのだ」と思えば、相手を責めようとは思わなくなる。むしろ、相手へのいたわりが生まれ、あたたかな言葉をかけることができるはずだ。自分自身が暴言を吐いたり、当たり散らしたりしてしまうときには、「こんなことをしても仕方がない」と思い、自分自身をいたわって「神様、どうかわたしの心の傷を癒してください」と祈ることができるだろう。
暴言を吐いたり、当たり散らしたりする人が、たまにしか会わない人ならば、我慢するだけでもなんとかなるだろう。だが、家族や友だち、あるいは自分自身ならば、さらに一歩踏み込んで、心の痛みを思いやり、心の痛みに寄り添う覚悟が求められる。どんな場合にも、人間関係の問題を解決してくれるのは愛なのだ。

それやこれやで、息子も人を思いやる事の出来る人間に育ってきたようです。本当にありがたい事です。
そこには、私達には見えない、神様の深く張り巡らされた愛の糸が息子も含めて、私達夫婦をも導いてくれたのでしょう。神の愛、またその想いは、何十年という歳月を経て、私達をもどうにかその理解への一端に近づけてくれるのでしょう。
ですが、場合によっては、明日をも知れないのが人生でしょう。夫婦の間柄にしても、最後まで順風万帆で行けるかどうか。すぐむこうに時化や大嵐が常にひかえている訳で。
ここで決定的に別れてしまう夫婦関係もあるでしょうが、二人が自我に籠らず、何とか互いのために心を割くのを実践出来れば(勿論苦しいでしょうが)、二人の関係にこれまでなかったかもしれない新しい地平線を開くのも、あながち夢ではないでしょう。
互いに愛し合うこと、これは神様のお言いつけです。まずは、二人が愛し合わなくて、どうしてもっと大勢の人を愛する事など出来るでしょう。
特に神様は私に、神がご自分の教会を愛されたように、妻を愛しなさいとまでおっしゃるのです。