
言うまでもなく、住んでいる建物も自分一人だけで建てたわけではないし、食べている食品も自分一人で育てたものではない。さらに、着ている服だって、自分一人で作ったものではない。
一人一人が集まって一緒に生きている社会というものは、私だけではなく、誰かのためにも働き、誰かのことも考え、誰かのためにも尽くすことを前提としている。
どこかで聞いた話だが、北極圏に住むイヌイットの人たちは、厳しい自然の中で、支え合って、助け合って生きている。子どもたちに競争をさせて「一番最初に問題を解いた人にはごほうびをあげます」と先生が言うと、一番最初に問題が解けた子どもは、まだ解けていない子どもに解き方を教え、全員そろって「できました」と手を挙げるそうである。厳しい自然の中では、一人だけ抜け駆けはできない。
社会の中で生きるとは、お互いに助け合い、支え合って生きることが暗黙のうちに求められている。お互いの思いやりや愛の実践なしには社会生活は成立しない、と私は思う。
ヨハネは、次のように私たちに勧めている。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(Ⅰヨハネ4・20〜21)

バチカンから遠い極東の日本、教皇メッセージは、見過されがちでしたが、幸い、かなり多くの日本人が、キリスト教に深い理解を示しており、教皇の説くグローバルな兄弟愛をあえて拒む人は、恐らく皆無です。もちろん、無宗教の方もおられますが、ほとんどの方が神仏に手を合わせ、祈る心を持ち合わせています。元旦、初詣の賑わいは、それを、なにより物語っています。とりわけ、戦中戦後、原爆、天災、原発事故などで、あらゆる辛酸をなめつくした昭和初期以前生まれの日本人は、この世のご利益、家内安全、商売繁盛どころか、なによりまず、全人類の共存共栄、世界平和を願い、その一刻も早い実現をひたすら祈らずにおれない深遠な心の持ち主であります。この崇高な心境と志は、兄弟愛実践に絶大な底力となり得るものと確信します。
「わたしは新しい掟をあなたに与える。互いに愛し合いなさい、私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)これは聖書の一節ですが、この兄弟愛が、あまねく実践されることを希ってやみません。