中学、高校と6年間、私のために、母はお弁当を作り続けてくれていた。ある時、ぎっしりと詰められていた母のお弁当に対して、私は注文をつけた。ただ、早くお弁当を食べて、友だちと遊びたかっただけなのだが、いつもよりも量を減らしてくれるように頼んだ。
それから2、3日は、お弁当箱に隙間ができてしまったお弁当を食べていたが、また元通りに戻ってしまった。それは、遊びたいだけの私の思いをはるかに超えて、お腹が空かないように、伸び盛りの体に必要な栄養が欠けないように、という母の思いも詰まっていたのである。母の後ろ姿を前にして、もう二度と注文をつけることはできなかった。
母はどこまでも子どものことを思い続け、子どもを見つめ続けている。これは古今東西、どの母親も同じ気持ちだと私は信じている。
今から2000年ほど前、自分の息子が十字架刑という過酷で悲惨な刑罰を受けた時、その母マリアは、息子イエスがかけられた十字架の下に留まり続け、息子の死に立ち会ったと聖書は伝えている。(ヨハネ19・25〜27)
さらに聖書は告げる。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49・15)
母の後ろ姿とは、このような神さまの思いと同じなのだ。