逆に言うと、自分が興味を持ちさえすれば、また、何らかの使命感を持っていれば、どんな事がらにも一生懸命になれるし、集中できるとも考えられる。
聖書によると、次のような話が伝えられている。朝早くまだ暗いうちに、イエスは祈るために人里離れた所へ出かけ、祈っておられた。すると、弟子達はイエスの後を追い、次のようにイエスに告げる。
「みんなが捜しています」
前日、カファルナウムと言う町で、多くの病人をいやしたイエスの後を追って、大勢の人々が押し寄せていたのである。
これに対して、イエスは次の言葉を弟子達に告げる。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(マルコ1・38)と。
この話は、当時の人々に神の国が到来したこと、救いの時が近づいたことを告げる生活を始めたばかりのイエスが、大勢の迷える人たちを目の前にして、自らの使命の大きさを受け止め、宣教活動に対する意気込みを表したエピソードであるとも言える。
イエスはこの意気込みをしっかりと保ち続けて、十字架の死に至るまで、これを生き抜くのである。