この聖書の冒頭の記事を読むと、等身大で理解できるように書かれていることが、カトリック信者である私達には、「ウムウム、そうだそうだ」と納得できますが・・・。
確かに聖書は科学とも共通する世界の生成を語りますが、しかしそれは、科学的な現象を解明する意図から書かれたのではなく、神が造り、祝福したけれども、その神の前から去ってしまった人間を神のみ前で再び幸せにしてやろうという、神の親心の面から書かれているということです。
ということから、7日目を、仕事から離れ、当時中東に沢山あった偶像や神々を礼拝するのではなく、ただ私達を造られた主なる神のみを礼拝するように、聖書は書かれているのです。
つまり、すでに7日目を主の日として神を礼拝していたイスラエル人が、「ウム、なるほど」と納得できるように、この記事が出来上がってきたのだそうです。「第七の日に神は仕事を離れその日を祝福され、休息された」と。私も納得。
それにしても、私は日曜日に演奏会本番が多く、困っておりますが。