その後、車で私どもの大学に移動なさったときは、すでに夜8時を過ぎていました。朝からの強行軍にもかかわらず、マザーは、床に座りこんでお待ちしていた学生たちに、短いお話をしてくださったのです。
74歳のマザーを、構内にある私どもの修道院に宿泊のためお連れした時、時計はすでに10時を過ぎていました。「お疲れでしょう。おやすみください」とお部屋にご案内した私に、マザーは言われました。「今日はまだ、ご聖体の前で祈っていませんから」そして、それから1時間、チャペルで祈り、翌朝4時半まで、おやすみになりました。
マザーは祈りの人でした。私も祈りを大切にしたいと考えていますが、とかく機械的にロザリオをつまぐっている自分に気づきます。そんな私の心を正してくれるのは、あの夜、一日中の「仕事」を、祈りにすり替えることをせず、ご聖体の前で背をかがめ、頭を垂れて、手にロザリオを握っていらしたマザーのお姿なのです。
そこには、ロザリオの祈りを唱える人ではなく、ロザリオを「祈る、祈りの人」としてのマザーのお姿がありました。