

修道院の庭には、立派な大木が何本かあります。少々の雨なら雨宿りができるほど大きく枝を広げ、葉を茂らせています。木の根元に目をやると、土が盛り上がり、枝ほどもある太い根が勢いよく張り巡らされ、地面のタイルを押し割ってしまうほどです。
マルコ福音書(4・6)の「種をまく人のたとえ」には、根がないために枯れてしまう種の話があります。では、私たちの存在を支えている「根」はどこにあるのでしょうか。木の根が地中にあって隠れていても、その深さが樹木の姿を決めるように、人の根も目には見えずとも、人の在り方に大きく関わっていると感じます。
「三つ子の魂百までも」と言われるように、一人ひとりの
10年以上もの間、重い病の床にあった友人のことを思い出します。
彼女は、どんなに苦しい状態でも、寝たきりで何もできない時でも、人間的に見ればどれほど惨めに思える状況であっても、「自分の存在は大きな
私たちの存在の根っこは、神の愛です。たとえ心にいろいろな囚われや偏りがあったとしても、神の
日々の祈りの中で、自らの根源である神の霊の働きを意識しながら、日々歩み続けたいと願っています。