

私事ですが、神父になる前に一ヶ月間黙想をする機会がありました。ちょうど冬から春へと季節が移り変わる頃でもありました。
黙想を始めたころは、黙想の家の庭の地面には、枯れた草があり、木々も葉っぱを落として死んでいるかのようでした。
ところが、時が進むにつれて、地面には緑の葉っぱが茂り始め、小さな花を咲かせていました。木々を見上げると、薄い緑の新しい芽をつけていました。耳を澄ますと、今までは聞こえていなかった鳥たちのさえずりも聞こえるようになりました。
冬の間、枯れたように見えた草木の根っこには、確かに生命が宿り続けていたのです。そして、春が来るのを待ち続けていたのです。このような光景を目の当たりにして、自分がたとえどのような状況にあったとしても、私自身の根っこにも神さまの生命が確かに息づいているのだ、と確信しました。
私たち一人ひとりは、神さまから「よいもの」として創られました。付け加えるならば、「神さまの似姿」として創造されました。失敗作は一つもありません。
そして、私たち一人ひとりには、神さまの生命という根っこが確かに存在するのです。私たち皆が「よいもの」として、「神さまの似姿」として、生き生きと生きるように私たちの根っこは、私たちに呼びかけています。
たとえ元気がなくても、思うように物事がはかどらなくても、そして病や障がい、困難を背負っていても、私たちの根っこはしっかりとあり続けているのです。一人一人が、「よいもの」として、そして「神さまの似姿」として、日々、力強く生きていくように、と私たちの根っこは日々、呼びかけているのです。
この根っこの声に耳を傾けながら力強く歩みたいものです。